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理由や起因を「障がい」のせいにはしない

今日、たまたま結婚した利用者さんの旦那さんが、色々と自分の相談に来られたり、カップルの利用者さんのいつもどおりの痴話ゲンカを見ていたりしていてふと感じたんですが、友人関係であっても恋人関係であっても、夫婦になっても、利用者さん達はよくコミニュケーションがすれ違って喧嘩になってみたり、落ち込んでみたり怒ってみたり、やたらといつも悲喜こもごもなんです。


それぞれ受け止め方や伝え方の部分で、言葉が足りなかったり、少しうがった受け止め方をしたり、そもそも何が言いたいかまとめるのが苦手だったり、相手の言ったことを理解するのが苦手だから、すれ違いが起きるわけなんです。


それ自体はどんどんあっていいと思うんです。
それが彼らの経験値になるから。



今日「これは起きがちなんじゃないかなぁ」と思ったのは、それを見て仲裁に入ったりする時の僕ら支援者のスタンスです。



彼らの言動や態度には99%「理由」があります。お互いに言わんとする思いがあって、その表出が少し大きく出たり、小さくしか出なかったりするだけで。


そんな時に僕ら支援者は彼らの「理由」に深く目を向けているでしょうか。
いの一番に「◯◯さんは□□という障がいがあるから」って、まるでその理由や起因は障がいのせいかのように扱っていないでしょうか?

いや、最終的には「□□」という障がい特性には目を向けるけど、まず「特性」ありきでスタートすると、どこの観点で見ても「障がいがあるもんね」みたいな結論にしか行き着かないわけです。



順番違うことないですか?


①まず第一に利用者さんの人格や性格や癖や経験値とか「人」としての部分に目を向ける
②それぞれの自分なりの理由はどうだったか
③その時のやりとりの「文脈」に目を向ける。要はやり取りの中ですれ違う要因がなかったか
④それらを全部取り除いてそれでも残る問題点の中で最後の最後に「特性」による起因はどうか


こうじゃないかな、と思うんです。


何でもかんでも障がい特性に理由や起因を求めるのは絶対に違っていて、逆に言うと僕は経験上、特性が実際に理由や起因になっていることなんて全体の20%くらいです。
もう少し踏み込んで言うと、もし仮に特性が理由や起因だったとしても、彼らはそこから方法論を知り、考え方を知り、自分の癖を見直し、性格的な傾向を自分で認識したらそこから工夫しながら成長していくので、ひと口に「□□障がいだから」なんて概念で括ることなんてそもそもナンセンスな気がします。


夕方ちょうど月に一度の支援者会議だったんですが、一人ひとりの利用者さんについて情報共有したり検証したり今後の支援のベクトルを話し合う際に障がい名や特性がどうこう、なんて話にまでなった人なんて1人か2人でした。



大した結論じゃないですが、障がい者支援だからといって、「障がい」ばっかり見ていたら、その利用者さんのことなんて一生分かってあげられないんです。
まず「人」として捉えることが支援者としてのリテラシーだと僕は思っています。


そこだけは譲れないなぁ。

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