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何を以って「しょうがい」と呼ぶのか

昨日、高校の時の同級生に以前から少し投げかけていた「障がい者の婚活支援」について打ち合わせをしていたんです。
(その話はまた後日)

その中で少し興味深いやりとりをしたので、「これって考えさせられるなぁ」と思った話なので書かせてもらいます。


婚活支援を行う、というところにあたって友人がポツリと
「前にお前のところの利用者さん同士が結婚する時にお披露目会の相談に乗っただろ?その時に会って話した時には全然そういう感じしなかったよな?」


確かにもう二人とももう実際に就労していることもあり、一見すると障がいがある、ということは感じないかも知れません。
僕は以前にシンポジウムで聞いた言葉を思い出しました。

それは、「障がいは関係性の中にある」という考え方です。



友人は結婚のお披露目会の相談に乗りに来たところで、利用者カップルと話をしました。必要なやり取りは問題なくできましたし、支障なく話も進みました。
この、「結婚のお披露目会の相談に乗る」ということについては彼は相談者に診断としての障がいがあったことについて何も問題がなかったんです。
つまり、障がいを持っている方ではあるが、相談のやり取りをする上では何も障害を生まなかったんですね。

この場合、僕の友人にとっては、診断としての障がいの有無を感じることはなく、言い換えれば障がいなんてなかった、ということになります。


屁理屈みたいかも知れませんが、これはすごく面白い見方ですよね。

もう少し喩えてみましょう。


僕らが昨日打ち合わせに使っていたお店で、僕らは飲み物を3人で3種類、そしていくつかの料理を頼みました。オーダー通りのドリンクと料理が運ばれてきて、美味しく頂戴しました。
さてこの場合、ドリンクや料理を作る人、運んでくる人が診断としての障がいを持っていたとしたらどうでしょうか?なにか問題があるでしょうか?

ないですよね。

つまりこの場合も、作る人や運ぶ人に診断としての障がいがあったとしてもお客さんとしての僕らにとってその障がいはありません。


つまりこれを「障がいは関係性の中にある」というふうな概念と言うそうです。


そんな話をしたら、友人がこれまた面白い話をしてくれました。
「俺はもともと一人で仕事をしたいタイプなんだ。一人のほうが仕事が捗るし結果も出せる。でも会社によってはチームプレイがある種のルールになっているところがある。その中では俺はものすごく生きにくくて上手く適応できなくて、もしかしたらその場合この会社やチームにとっては俺は言い方悪いけれど【障がい】があるのと同じってことか。」


そうなんです。
診断としての障がい、というもの自体がもつ生きづらさはもちろん否定できるものではないんですが、こと「生きていく」ということに関しては僕らは関係性の中に「障がい」というものを感じているんです。

逆を返して言えば、もちろん診断としての障がいという生きづらさ自体にも支援もサポートも必要だと思いますが、実は必要なのは関係性という障がいを支援することが必要じゃないか、という話です。


まぁ、割とありふれた話かもしれませんが、社会自体をスパンと変えることは難しいと思いますが、「障がいのない関係性」という環境を少しずつ作り上げていくことは可能っぽいので、まぁ、おおもとの「障がい者向けの婚活支援」もそうですが、そういうインフラづくりが必要なんだ、ということですね。



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