見出し画像

自分にしかできないことがある

特にボリュームのある話ではありません。もしかしたら福祉や支援というものとも関係ないかも知れません。
ただ、少なからず「人」に携わっている者として胸に刻んでおかないといけないかな、と思って記しておきます。


僕らがやっている仕事というか役割というのは「支援」です。
対象者は職種によってジャンルによって様々で、いつだって僕らが目の当たりにしているのは社会の中で生きづらさを抱えている人で、支えや助けを必要としている人です。

そして厚かましい話ですが僕らは彼らを支えながら、それと並行してそんな生きづらさを抱えた方が少しでも生きやすい社会づくりの一助を担おうと活動をしています。


当事者の直接的な支援と、当事者が生きていくためのインフラを整えていくことが詰まるところ僕らがやらなければならないと認識している役割です。
当事者の直接的な支援も、インフラづくりも誰かに求められて始めたわけではありませんが、やっているうちに求められるようになったり、「他の誰か」がやってくれるわけではなさそうな課題に気づいたから動き始めていくうちに、それが自分の役割になり、「使命」のように感じるようになって突き動かされていきます。


でも、人を支えることを生業にしているからこそ自分を呪うときがあります。


それは、「自分の身近な人の支えにも助けにもなれない自分」です。


言ってみれば自分にとって本来赤の他人である人の人生や生活の中の一部に関わらせてもらって、生きづらさを減らしたりなくすために身を粉にして活動しているくせに、自分の身近なたったひとりの家族だったり友人だったり仲間に何かあった時に驚くほど無力な自分を目の当たりにします。


それが病気や事故だったとしたらそりゃ僕らとは畑違いなのでそもそも出来ることなんてないのは分かっています。
でも僕らがその時自分を呪うのは、「よその人の世話ばかりして、こんな身近な人に何もできない自分の無力さ」であり
「何が人を支える、だよ!目の前の一人救えてねーじゃねーか!!」
という生々しい感情の塊です。


自分の無力さや憤りに悶えながらそれでも彼らのために何が出来るんだろう、と心と頭を振り絞ると思います。


そこに正解も不正解もないんですが、おそらく同じような境遇にいる人が最終的にたどり着くのは

「自分だから出来ることはなんだろうか」

だと思います。少なくとも僕はそれを考えます。


とことん寄り添ってあげることでもいい。自分の仕事を通じて、間接的なカタチで報いることでもいい。もちろん神頼みをしてもいいんです。



でも、これは自分への憶えとして残しておきたいんですが、



僕らはもしかしたら身近な人ほど助けも支えも救いもできないかもしれないこと。
ただ傍にずっといることすら許されないことがあること。
そしてそれに途方も無い無力感を感じざるを得ないことがあること。


でも、僕らには支えることが出来る人がいること
もしかしたら変えられることができるものがあること
それは自分にしかできないことだということ。


自分にしかできない宿命みたいなものに精一杯向き合うことが、もしかしたらその身近な人にできる僕らなりの支えになると信じて進むしかないんです。



まとまりのない話ですみませんでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?