人を責める前に、まず環境や仕組みから見直す
僕は利用者さんに、自分ごととして何事も考えていただく促しとしてよく言うことがあります。
「最終的に行動をするのは皆さん自身ですよ。」と。
介助的な事を除いて、最後の最後まで全部してあげること、というのは一時的なものであればともかく、恒常的な支援ではないと考えてます。
ま、一応就労移行なので、社会に出てしまうとほとんどの自己決定と行動をご自分でしていかなければならない環境になるので、そこに向けた意識喚起として、繰り返しお伝えしています。
ただ支援を進めていく中で、支援者側で実際に話し合っている中で、最終的に「結局本人にやる気がないから出来なかった」という向きで話を帰結したことはありません。
たとえうちの事業所の利用期限が迫って、支援を引き渡す時であっても、それが本人の努力が足りないだとか、この障がいがあるからだとか、そういう「課題は本人の問題です」みたいな結論は持ちません。
それを言った瞬間、僕らは支援者としての責任を全て放棄したことになるからです。
支援というのは本人に直接アプローチをするばかりを指すものではありません。本人が生活をする、もしくは人生をデザインする上で必要な要素や要因を、探ったり整えたりしていきながら総合的に眺めていかないといけません。
それが支援というものだと思います。
経験が乏しいからこそ未成熟なだけかも知れない
生育歴の中で心にダメージがあるからそれが課題になっているだけかもしれない
考え方や捉え方に偏りが生まれるきっかけが過去にあったからかもしれない
今の生活環境によってそれが習慣化しているのかも知れない
個人に由来しているように見える問題や課題って実は、紐解いていったらいろんな要因が絡み合っていて、それらを全部取り除いたり解き放ったりすることで解消することのほうが圧倒的に多くて、完全に本人に由来するようなものってほとんどないんです。
お金に苦労しすぎるくらい苦労してきた方は、どうしてもお金への執着が強くなりがちだし、性に触れさせてもらうことなく伏せられて生活してきた方は、健全に芽生えた性的な欲求のはけ口がなくて軽犯罪を犯すことがあります。
こんな事をいくら本人を罰してみてもそれは何の解決にもなっていません。
大事なのはその方を責めたり罰したりするよりも正しい関係性をもたらす方が実は課題は解決します。
お金の執着が強い方は、ひとまず生活に困らないようにお金の面を整えて管理の仕方を支援したら落ち着きやすいし、性にまつわるトラブルを起こされる方は、もしかしたら風俗を利用したり、パートナーが出来たりするほうが落ち着いたりします。
支援者が「本人の努力が足りない」とか「本人の障がい面によってどうこう」なんてセリフを吐いていいのは、ありとあらゆる環境や仕組みを整えて、指導も直接支援も目いっぱいの可能性を探って、もう白旗をあげるくらいになった初めて「自分達が支援しきる力がなかった、降参」という意味を込めて「本人の問題です」と言わざるを得ないくらいにすべてのことをやりきったときに、初めて使うことを検討する結論だと思うんです。
ちょっととりとめもないですが、「利用者さん自身」にまず課題の責を求めるのは支援者としては少し恥ずかしいことじゃないかなぁ、という事と、支援というのはそもそもがその本人に纏わりついている問題を整理して「何があったら解消するだろうか」という風に、本人の非ではなく仕組みや環境や背景を見渡して、適切な環境を提示出来ていないことを周囲にも見抜かれてしまうよ、という話でした。