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支援は「目的志向」でもっと自由になる

ちょっと偏った意見なんですが、僕は支援というのは要するに「どんな結果に着地するか」というところが一番の要点だと思っています。
福祉的なインフラや仕組みを作るときも基本は同じ姿勢です。ただ、この場合は「どんな結果」じゃなくて「どんな状態を生み出すか」というところが要点になるんじゃないかと思います。
言葉自体は悪いですが、言うならば「結果志向」です。
 
 
そのためのプロセスはいくら柔軟でもそれはよくて(もちろん法に触れたり人道的に外れるのは違いますが)、むしろ支援のプロセスでいろんな振り幅のアプローチが生まれるほうが結果的には良かったりします。
 
 
支援の過程でいろんな引き出しが生まれるっていいですよね。
支援機関ではなくても、例えば近所のスーパーのパートのおばちゃんがインフォーマルに関わってくれることがあれば素敵な支援プロセスで、言えばすごくバリエーションに富んでいますよね。
 
 
ご家族を支援の輪に入れたり、知人や友人を入れたり、職場の方や一般の方がそこに部分的に仲間になったりするなら、その方は段々僕らの支援の手が必要なくなるようになるかもしれません。
 
 
むしろ「この支援を受けるならこの機関にかかるしかない」「こういう支援が必要ならこの事業所の中から選んで」みたいなお決まりの選択肢しか生まれない方が視野としては狭いように感じます。
 
 
例えば「将来実家から独立することも想定しながら一般就労する」という結果を支援の将来イメージとして決定した場合、そこに着地するためには、当然一般就労に向けた支援をしながらも同時に独立のための貯金計画なり家探しなり、家具や家電の選定をどうするか、などの支援のプロセスの必要性が生まれるわけです。そこを支援するためにどんな方法があるか、誰にお願い出来るかを探っていく、という動きになりますよね。
 

結果志向、というのはつまりはこういう意味で、キレイな言い方をすると、こういうのを「目的志向型」と言うそうです。
 
 
対象者の方の分析もして課題整理もして希望も要望も確認した上でまず目的地を見据える。
どんな支援をするかは極論そこから走りながら組み立てながら修正しながら創っていくわけですね。
支援プロセスの自由度を持たせていく。
 
 
ただそうすると少し具合が悪いことが起こります。
必要な支援のための資源がない、という問題です。
 
 
話の巻き直しみたいですが、結局必要な資源が不足しているために福祉制度が生まれて、必要な資源が不足しっぱなしだから公的な社会資源を生まざるを得ない。
そしてそれがまるで支援の決まり切ったプロセスみたいになり、気がついたら目的志向型ではなく、実は「手段(プロセス)志向型」の支援になってしまう、というサイクルが生まれているんじゃないかと思うんです。
 
 
もちろんそれが全ていけないという事ではなく、選択肢が広がりにくくなる側面があるよ、という話です。
 
 
ただ、そもそも支援のための手段自体が不足していた時代と比べて、今は制度も整備されています。
ということは支援プロセスの中で資源の選択肢があまりない、ということはつまり、裏を返せばその資源自体を「開発」するチャンスでもあると思いませんか?
 
 
時々支援の場面で、対象者さんの「たどり着く結果」の設計を考える時に、「制度ではそこまではできないから・・・」とか「これ以上はこのサービス使えないから」みたいな事が結果にたどり着くための障害になっているかのような話を聞くことがあります。
 
 
 
でも、仕組みがないから、もう少し言えばそこにマネタイズが生まれないから結果にたどり着けない、は随分福祉の本質からは離れているように感じるんです。
 
 
支援の仕組みなんか最初からあった訳じゃなくて、最初はとにかくなんとか成立させよう、と援助を求めながら支援活動ってされていたはずじゃないですか。
つまりは歴史の文脈としては「ないものを生み出していた」はずです。
結果としてその後社会保障や制度が整備されて今のカタチになっていて、それはもちろん洗練された上でのことだと思うんですが、それでもなお社会や時代が移り変わる中で足りていないものは常にあります。
 
 
乱暴な比較ですが、本当に何もかもがない時代から比べたら現代の僕らは恵まれています。
しかも今の方がよっぽど「生み出す」はしやすい時代です。
 
 
目的志向的に考えると確かに、そこにたどり着くプロセスの中で不足しているリソースに目が行きがちになると思うんですが、それを支援上の障害と思うのか新たな支援プロセスを生み出すための「余白」だと考えるのか。
本来は福祉も支援も別に必ずしも制度に従うことだけが方法論なわけではありません。
もっと自由に動けばいいし、もっと自由に生み出せばいいんだと思います。
 
 
その自由度を制限しているものは何なんでしょうか。
 
 
それが僕ら福祉や支援に携わっている者の捉え方だとするなら、僕らはもっとアップデートしなければ今あるリソース以上の支援はできない、という少し哀しい未来になってしまいます。
そしてそれがもし「お金」なのであれば、僕らはお金やマネタイズというものにもっと本気で向き合わなきゃいけない、というひとつの目標が生まれます。

 
目的志向、という考え方は、もちろん支援のスキルというか視点としても重要だと思いますが、目的志向ゆえに見えてくる支援プロセスの中の不足、を「埋めることができる余白」と捉えてみると、もしかしたら福祉や支援に携わる僕らのやるべきことの可能性はある意味もっと広がるんじゃないかな、と思います。
 

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