経験という名の財産を奪うな、と思う
これは「支援」という枠組みだけの話ではないんですが、世の中は何故かややもすると「短期的な結果や成果」に偏重しているような気がするのは僕だけなんでしょうか?
短期的な、というよりも因果の輪っかが単純でシンプルなものにばかり目が向きがちな感じでひどく結論を急いで出したがっていて、単純なアクションでスパンと成果を得たいのだろうか、と思えることが多いなぁ、と感じます。
僕は大学を家庭の事情で中退しています。最終学歴は高卒です。
ちょうどその当時はいわゆるバブルが弾けた直後で「就職氷河期」という言葉が初めて世に出回った頃で、若造なりにそんな時勢に「そんな大していい大学でもないのにそれを中退なんていう学歴で一体どこに就職できるんだ」と絶望していたことを覚えています。
三流大学中退 = 負け組 = 今後の人生お先真っ暗 みたいな三段論法のような図式が頭を巡っていました。
その当時の僕の描いていた40歳の僕の未来予想図では、僕はえらくしょぼくれて、死んだような顔をしてしたくもない仕事をしながらギリギリの生活を送っているイメージでした。
そりゃそうです。それまでは大学を卒業したらコネで入社できる保険会社か何かにほぼほぼ就職が決まったようなものだったので、それが崩れるなんて夢にも思っていなかったんですから。
短期的な結果だけで言うと僕は完全に人生を失敗したことになるんだよなぁ、と当時を振り返って思います。実際当時自分で思っていましたし。
何をどうやってみても、20歳当時の僕は20年後に障がい福祉の仕事をしているなんて思いもよらないしNPO法人の理事をしながら、それなりには楽しい社会人生活を送っているなんてことも予想だにしていませんでした。あまりにそれまでの人生と文脈がなさすぎて、因果が結べないからです。
普通の地方の私大を中退した僕が20年後に全然違う道の人生を歩むことになったのは、いろいろ考えたということもあるけれどやっぱりその中で積んできた経験に大きな影響を受けているからだと思います。
そんな話を前置きに踏まえて。
最近は子育ての際に、子どもが外で泥んこになって汚れまわって遊ぶのを嫌う親御さんも少なくないと聞きます。
怪我をしては危ないから、と公園の遊具は危険性のあるものはほとんど使えなくなっている様子を見るようになりました。
大人しくしている子どもがどうやらいい子で、子どもらしく騒いだりはしゃいだりドタバタ走り回っている子はいけない子、どころか現代では発達障害を疑われることもあるそうです。
障がいがあると診断されたお子さんは、その日から「この子はあれが出来ない、これが出来ない」という存在になり、出来ないことはハナからさせないようにしているという子育てをされている方もいます。
パニックになるから、ルーティンが崩れると癇癪を起こすから、こだわりが強いから、慣れない環境だと落ち着かないから、などなどの理由から、うちの事業所に来られる利用者さんの中にはごくごく一般的な生活動作や余暇の過ごし方を「したことがない」というものがほとんど、という方は少なくありません。
成人期の障がい者支援においても、「こういう特性があるから、こういうことは不向きだろう」とか「本人にしんどさが出るからやめておこう」という判断がされることは少なくありません。
その全ての判断を否定する気も批判する気もありませんし、僕も「一時的」にそういう判断を下すこともあります。
ただ考えておかないといけないのは、「安易に経験を奪う事がどれだけの機会損失につながるのか」をどれだけ育てている側が意識できているか、ということだと思っています。
自分の経験から、必ずしも心地の良いものばかりではありませんし、本当に途方に暮れる日もありましたし、明日飯が食えるかどうか分からない、という時代も過ごしてきましたが、必ずしも望んでいない境遇を経験していく中で、それでも生きていると段々とその経験が実を結ぶことはありました。
逆に、しんどい思いをしてきたからこそ初めて分かったこともあります。
子どもの頃なんてそもそも怪我をしてみなきゃその良し悪しを判断する力がつかないことなんて山程あります。だって人間は最初は何にも知らないところから始まるんですから。すべてのことが初めてなんですから。
知識で埋められるものももちろん多いです。知らないよりは知っている方がいいし、上手くいかないよりは上手くいったほうがいい。
ですが、何事もちょっとかじっただけですぐに結論が出たり成果・結果が出るものばかりじゃないのが人の人生です。
その時その時の「出来る、出来ない」が大事なんじゃないはずです。確かに経験値、なんてものはそれが将来どういうカタチで生きるのか、生きないのかは見えないけど、経験は必ず刻まれていくものなんだと思います。
明日芽を出すものじゃないが、どこかで芽吹くかも知れないものなんです。
ありきたりな結論の話なんですが、僕は経験にまさる学習はないと思っています。
ただしそれはすぐに結果に直結するものではなくて、人が成長していく過程においてはその時時の経験というのは「点」でしかないことも多いです。
ただし、大事なことはその点がすぐに実を結ぶか否かではなくて、様々な点が将来どのような線や面になっていくか、という「可能性」の引き出しをどれだけ増やしていけるか、じゃないだろうかと思うんです。
人の人生の因果というのはそんな単純な連環で連なっているものではなくて、もう少し複雑な絡み合いの「因」から時に予想もしなかったような「果」が芽生えてくることに意味があるような気がしてなりません。
障がいがあるから、は経験をさせないでいい理由にはなりません。
危ないから、怪我するから、汚れるから、も経験を奪う理由にはなりません。
当然、失敗するから、も。
重ね重ね言いますが、批判や否定をするようなつもりで書いているものではなく、経験、という財産を「もしかしたら奪っているかも」というちょっとした気付きが、人の可能性を、将来を左右することにつながることがある、ということにちょっとだけ触れていただきたいな、と思っているんだよ、という話です。
まぁその割にちょっと攻撃的な表題をつけてしまったんですが、経験ってやっぱり財産だと思うので、長い目でそれが活かされる事が一番大事だなぁ、と感じている今日の気づきです。
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