人が生む障がい、社会が生む障がい、関係から生まれる障がい
昨日地元で行われた「障がい児保護者支援啓発フォーラム」に参加してきました。
登壇させてもらい、保護者の方の質問にお答えもさせていただきました。
僕は成人期の支援者なので、タイムリーなお悩みへの返答にはなっていないかも知れませんし、えらくのんきな回答だったかも知れないんですが、できるだけ成人期に向けて不安を抱いてほしくないし、成人期を知っているから感じる、子育てこそどれだけ普遍的な事が大事なのか、というところでお話をしたつもりです。
まぁ僕の話なんかはどうでもいいんですが、昨日1日を通して感じたこと、結構痛烈に感じたことを自分なりに書き留めておきたいと思います。
本来の趣旨と違う視点になっていたら申し訳ないです。
session1では僕を含めて3名の支援に携わっている方とのディスカッションでした。
先述したとおり、当日参加、またはオンライン視聴されている保護者の方からの質問にそれぞれの立場から答えていく、というものだったんですが、ちょっと不思議な感覚を憶えていました。
僕なんかが言うのはおこがましいかぎりなんですが、職種ももちろんバラバラですし、サービスの対象も違います。なんなら事業活動地域も違います。おそらく全く違う環境下の中でそれぞれ支援をされているはずなんですが、質問の回答のニュアンスが被っているんです。
一応事前にある程度質問を読み込んだ上で僕は僕なりに幾つか回答を準備していました。さすがにその場ではじめて考えてお答えするというのはいけないので。
話そうと思っていることのエッセンスとかポイントをメモで残して話を組み立てようと思っていたんですが、ほとんどの質問において何故か僕は最後に答えを求められる事が多く笑、他の登壇者の方のご意見を先に伺うわけです。
するとまぁ見事に僕が用意していた答えとほとんど同じニュアンスの内容を皆さんされるわけです。
おかげで僕は結果的に同じニュアンスの話をなぞるわけにいかないので、ほとんどその場で考えさせられるハメになったんですが・・・。
他の方がどのようにお感じになったのかは分かりませんが、僕には割と新鮮な感覚でした。
多分同業の方と話しているとほぼ感じることはなかったので。
「へぇ」と思いながらよくよく考えると、お二方ともいわゆる福祉畑の方じゃないんですよね、もともと。
なんというか見方がフラットだなぁ、と感じたんです。
「障がい児」という見方ではなく、まず1人の人格として捉えつつそこに内包されている生きづらさがあるんだな、という捉え方(すみません、すごく分かりにくい表現で)なんです。
お子さんを上から見ているんじゃなくて同じ高さの場所から見ている感じに少し胸がチクっとする思いがしました。
そしてsession3では対談を見させてもらいました。
実はその前に対談に登壇された先生のお話を昼食時から少し伺っていた中での対談の拝聴だったんですが、そのお話の中では「障がい」があるお子さんを育てていく中で、本当にしんどいのって「お子さんに障がいがあること」なんだろうか?というところへの因数分解と分析から、話があっちこっちに飛び回った挙げ句、最終的に保護者の方ご自身だったりパートナーとの関係性づくりだったりをしっかり育むことだったり、我が子を一蓮托生で逃れられないものにするんじゃなくて、自分とは別の人間であることを無責任な意味じゃなく理解しておくこと、意識しておくことなどが大事ですよ、みたいなところに着地したと思うんですが、(見当違いな理解だったらごめんなさい)そこでも支援者としてなんかものすごく大事なことが込められているような気がしながら聞いていました。
まぁ話題的には直接的に関連性が薄いそれぞれのセッションですが、僕は支援者として改めて「障がい」は一体どこにあるんだろう、ということに思いを及ばせることになりました。
僕らは支援従事者として「障がい」を持たれた方を支援しているけれど、よくよく因数分解しないといけないのは、
「必ずしも個々が内包している【障がい特性】と呼ばれるものが生きづらさとイコールなわけではない」という視点
なのかな、と思うんです。
診断としてなされたものを一般的に「障がい」と呼ぶのかも知れませんが、もしかしたら彼らの人生における障害になっているのは、個々の特性よりも、人の認知として区別されてしまうことによって起きる障害、言い換えれば生きづらさだったり、ちょっと扱いづらいものに対してラベリングやカテゴリ分けをしようとする社会構造から生まれている生きづらさだったり、当事者、いや当事者に障がいがあることによって拗れてしまう関係性から生まれる生きづらさの方がもしかしたら大きな課題なんじゃないだろうか、と考えるんです。
人や、社会や関係性から生まれているかも知れない「障害」も当事者の器質的に生じている「障がい」を十把一絡げにして「障がい」と呼んでしまってはいないだろうか。
そして、ゾッとする話ですが、僕ら支援者が、福祉の側が彼らを「障がい者」に仕立て上げてしまってはいないだろうか、と思うんです。
彼らの人生や生活をサポートするはずの僕ら支援者が、もしかしたら彼らを「障がい者」に仕立て上げてしまっているのかもしれなくて、社会や関係性から生まれる生きづらさという障害を手つかずにして一緒くたにしているのかも知れない、ということをバシバシと感じました。
多分今回のフォーラムは保護者だけでなく、僕ら支援者こそが自分達の視野だったり「当たり前」にしてきた感覚をアップデートするために聴いたほうがいいものがたくさん転がっていた会でした。
改めて、現場支援をされている方へ。
僕らが向き合っている当事者にとっての「しょうがい」って、本当に当事者に内包されているものに生きづらさがあるのか、社会構造が押し付けてくる同調圧力みたいなものによって生まれる生きづらさなのか、「人」が本人を障がい者に仕立て上げてしまっているのか、本人をとりまくいろんな関係性から生まれている生きづらさなのか。
僕らは「一体何が障がいなのか」ということにそろそろ意識を置いておいたほうがいいのかも知れません。
そんなことを考えさせられる1日でした。