コロボックルの掟(星からおちた小さな人より)

「なんじが不幸にして人にとらえられたとき……。」
ミツバチぼうやは、ぼそぼそとつぶやいた。
「……なんじはこの世にただひとりとなるべし。」
(「星からおちた小さな人」より引用)

「守る」という言葉について、広辞苑を引くとこう書かれている。
    まも・る【守る・護る】
    マ(目)モ(守)ルの意
 「守る」という言葉は、もともと「見続けるということ」と言えるのだろう。それは「ある対象」に対しての「守り」である。見続けるということ=関心を持ち続けるということは、案外困難なことである。対象は変貌し続けるのがアタリマエであり、自己も然り。日々変化の連続。それを文字通り見守ることは、そのまま「守る」ことにつながる。親になって、初めて自分が「守られ」ていたことに気付いたという情けなさと、有難さが同居した感慨もある。

 その「守る」対象が、自分を含めた集団や思想になると、事は面倒になる。見続けることが難しくなるからだ。客観的に自己を見つめることは、やっかいなことである。歴史を振り返ると、客観性を欠いたことにより自らを見つめる事に失敗した事例は、掃いて捨てるほどあるのである。守ることは、単にべたべた可愛がることと同等ではない。そこには妥協のない厳しさや、容赦のない戦いが必要だからだ。しかしそのことはある種のリスク・難しさも内包している。概して妥協のない行動や、理想の高い闘争は、一歩間違うと諸刃の剣になるからだ。

 さて、コロボックルは、その存在自体が大きな秘密であり、守る対象である。その秘密を守るためには、非常な努力が必要であることは、想像に難くない。「アシナガの戒め」と呼ばれるその一節は、その秘密を守るための高い要求をコロボックル自身に突きつける。
「なんじが不幸にして人にとらえられたとき……。」
「……なんじはこの世にただひとりとなるべし。」
 この世の中にたった一人で放り出されたと考えて行動しろというつらい掟である。コロボックルにとって、それほど人間は恐怖の的であり、警戒して足ることのない相手であったということの現れであろう。
しかし、コロボックルは人間を永遠の敵と考えているわけではない。人間を味方にしたコロボックルは、せっせと味方以外の人間にメッセージを投げてくるようになる。開放的で前向きな彼ら。そんな性格は「ミツバチ事件」の会話にも現れている。

 「守ること」は決して、障害を取り除き、周りから囲い込み、居心地の良い空間を作ることではない。立ちはだかる障害を見据えて、乗り越えることも守ることなのだろう。昨今の世の中を眺めていると、人間はまだまだコロボックルから学ぶべき所は多いようだと思ってしまう。

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コロナ禍の今、改めて感じることの多いトコロです。


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