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”社会保障制度の利用史”的なるもの

『ネガティブケイパビリティで生きる(さくら舎)』にて、”社会において、体験の質感にアクセスできる言葉が足りていない”という話があり、その延長線上に、昨今話題になった『東京の生活史』等の登場を位置づけてる文章を読んで、ああなるほど、と思いました。

”社会保障制度を利用された(しようとする)個人の体験”は、インターネット空間でさえアクセスしづらい。

拙著「15歳からの社会保障」を上記の文脈に位置付けて自己批評するとしたら、フィクションを採用することで、「制度を利用するという体験の質感にアクセスできる言葉」を擬似生成することを試みたとも言えます。


そう考えると、社会が”個人の制度利用を経験したその利用史”に触れる機会を増やしたならば、どんな事が起こり得るでしょうか。

本年和訳版が刊行されたミランダ・フリッカーの『認識的不正義』という書籍があります。

著者は、認識的不正義を、”話し手の社会的アイデンティティに対する偏見的ステレオタイプが原因で、その人の信頼性が不当に低く見積もられることで、その人が知識の主体としての能力を貶められる不正義”であるとします。

前述したように、社会保障制度利用者の言葉が耳目を集めないことや、制度利用者というラベリングにより信頼性を低く見積もられる場合があること、そもそも制度利用者の語りうる言語資源の不足は、認識的不正義にもつながるように思います。

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この間、社会保障制度利用のある方にヒアリングを行った際に、

「この制度を利用した身として、利用を逡巡している人、制度自体を知らない人に対して、自分の経験を役立てたい」という言葉を複数の方から得ました。

聴き手である自分の社会的スタンスが、そういった類の言葉以外の出現を意図せず封じてしまい得るとしても(その自覚があり、そういった構図を極力崩す試みを経てもなお)、それぞれの人の言葉には力がありました。

昨年、お手伝いをさせていただいた職能団体においても、ある制度利用をしているAさんが、当該制度の不備に対し、周りのソーシャルワーカーたちと行政との交渉テーブルにつき、その不備を是正するプロセスにおいて、他の制度利用者と連帯し、是正結果を得て口にした「オレらの経験が、社会の誰かの役に立ったんだ」という言葉が強烈に印象に残りました。

連帯を産む社会的装置として、社会保障制度を再度位置付けるために、『社会保障制度の利用史』的なるものにできることがあるかもしれません。


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