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織物の素材である金銀糸を、現代のジュエリーに

西陣織の材料や、日本各地のお祭りの山車や神輿を華やかに彩る金銀の刺繍に用いられる、金銀糸。純金の金箔を細かく裁断して糸に撚られたもので、古来、高貴な人々の衣装装束に重宝されてきました。

                               画像提供 寺島保太良商店

金銀糸の歴史は古く、仏教の伝来と共に日本に渡ってきたと言われます。京都の市街地、北西部の西陣で栄えた西陣織物の素材として、京都の伝統文化を永きに渡り支え続けてきました。
 
中世の日本では、ヨーロッパや大陸のように宝石や装飾品を身につけず、十二単、着物などの衣装に金箔を織り込んだ豪華な装いで権力を表すという美意識が育まれ、鮮やかな織物の文化が栄えることになりました。
 
金銀糸に使われる金箔にも、金の純度の違いによって様々な種類があり、特に高価な純金箔を用いた金糸は「本金糸」と呼ばれ、大変価値のあるものです。
職人の手作業により、いくつもの工程を経て生まれる本金糸の放つ光沢は美しく、その輝きはいつまでも続きます。

                               画像提供 寺島保太良商店

「素材としての金糸の価値を広げていきたい」 
伝統工芸の新しい形、金銀の輝きを放つジュエリーが生まれる

創業明治30年、京都の地で金銀糸の制作に携わる寺島保太良商店。現在、4代目の店主を務める寺島大悟さんは、「これまで金銀糸は伝統工芸を支える重要な素材ではあるものの、光が当たらない存在でした」と話します。

日本各地で行われるお祭りの行事に欠かせない、街を彩る鮮やかな「山・鉾・屋台行事」は、日本全国の33件がユネスコ無形文化遺産に登録されており、「金銀糸をつくり続けていくことは、日本の伝統文化を守り続けていくこと。金銀糸がつくれなくなってしまえば、伝統文化を絶やしてしまうことになります」と言います。

日本各地の伝統工芸は後継者不足や安価な大量生産との競合により、衰退傾向にあります。金銀糸も、ポリエステルやナイロンのフィルムなどを用いた金銀糸が大量生産されるようになり、生産が減り職人の数が激減しました。
文化を守り、職人の生活を支えていくためにも本金糸を残さなければならない。生産の需要を生み、次の世代へ残していくために「新しい価値を創造する」ことを考え、生まれたのが金銀糸のジュエリー『tabane』です。

                                画像提供 寺島保太良商店

金銀糸は、和紙に漆を塗り、その上に金箔を貼り、それを裁断し、糸に撚るという工程の中で、6軒もの職人の手を通して約2ヶ月かけて出来上がります。
寺島保太良商店は、職人さんの手から手へと渡される工程を管理し、出来上がった金銀糸を、次使いやすい長さに揃え束ねて完成させる、言わばプロデューサー的な役割を果たします。
 
「tabaneという新しい形をつくり出したことで多くの人に金銀糸のことを知ってもらい、素材としての価値を広げたい」
寺島さんのその思いを聞き、今回は、京都南部に位置する「金銀糸のまち」城陽市を訪ね、職人の手仕事で金銀糸がつくられる工程を取材させていただきました。

金銀糸を支える、漆と金箔のストーリー

城陽市は、京都市と奈良市の中間に位置し、国内の金銀糸の生産の80%を占めています。
桂川、宇治川、木津川という大きな三つの川に挟まれ、豊富な地下水に恵まれていて湿度が高く、金銀糸の生産に適した土地。
金銀糸の消費地である西陣からも近く、湿地帯である気候風土を生かし、幕末頃からこの地で生産が始まりました。
 
なぜ、金銀糸の生産には湿度が必要なのか?
理由は金銀糸の制作に欠かせない「漆」の存在です。
漆は金箔を輝かせるためには重要な役割を果たし、和紙の表面を滑らかにして金箔の光沢を美しくするための「地漆」と、金箔を和紙に接着するための「押し漆」があります。
漆は湿度が高いと乾きやすいという特性があり、城陽市の湿地帯である気候風土が漆制作に適していました。
そのため、明治の終わりから大正の終わりにかけて、金銀糸加工の工程を担う職人がこの地に集まるようになり、地域で一貫して金銀糸の生産ができるようになり、城陽市は「金銀糸のまち」として発展したのです。

「地漆」を引く
初めに訪れたのは、和紙に地漆を引く工程を担う服部商店。

「四季を通して日本は湿度が異なり、日々その日の気温や湿度に合わせて漆の固さを調整しなければなりません。これが、数字で決まっているわけではない、職人の感覚で調整する、とても難しい作業になります」と、寺島さんは言います。

城陽市でも、和紙に漆を引く工房は、この服部商店の1軒のみ。
7年前、和紙に漆を引く職人が廃業宣言をし、一時は金銀糸の制作が存続の危機に瀕しました。伝統工芸は分業で成り立ち、どの職人さんが欠けても存続することができなくなってしまうのです。
 
そこで事業継承者を募ったところ、手を挙げたのが服部さん。その後、5年間の修行を経て独立し、服部商店を設立しました。

「伝統工芸は職人の分業でつくられるので、僕らは最後に帯などが出来上がって、お客様からその感想を聞けるわけではない。最後の声を聞くことができないので、答えが出ない仕事に日々向き合っている難しさがあります。その中で自分のできることは、次の工程である、金箔を押す「押し屋さん」に、押しやすいようなものをつくること。受け取る人が気持ちよく、良い仕事ができるようにという思いで仕事をさせてもらっています」
 
伝統工芸は、このように、次から次へと手渡され、続いていく。私たちは、連綿と受け継がれてきた技、職人から職人へ、バトンのように渡されていったものを最後に形として受け取っていることを感じました。

125メートルの和紙(高知産)に、服部さんが機械で漆を引き、奥様と2人作業で和紙が重ならないように風を起こさず慎重に「室」に収納していきます。

室は砂利がひかれており、そこに打ち水をしたり、加湿器を置いたりして高い湿度を保つように密閉されています。

1~2日ほど、室の中で乾燥させた後、もう一度漆を引いてから、次は金箔を押す箔押し師へと渡されます。

金箔を押す

続いて訪れたのは、箔押師の大石隆さん。
地漆が引かれた和紙に、今度は金箔を接着するための「押漆」を行います。

漆を引いた和紙の上に、1万分の3mmという薄さの金箔を隙間なく貼る作業。

かつては金箔を使って様々な質感を生み出してきたという大石さん。

その箔が西陣織の帯などのなかに織り込まれていきます。

金箔が織り込まれた西陣の織物。今ではプリントの技術で金箔を使われることが少なくなり、仕事の数が激減して職人の数も減ってしまいました。

125mの和紙に5800枚という数の金箔が貼られた和紙は、圧巻の輝き。ここで箔押しされた和紙は寺島さんに手渡され、次の工程である、裁断工場へと運ばれ、細かく裁断されます。

撚糸をつくる
今回の取材で最後に訪れたのは、裁断された金箔を糸に撚る工程を行う、太田金糸工場。

金銀糸は糸の太さも様々あり、織物や組紐、刺繍など様々な技法や使用法、作品、製品によっても使われる太さが千差万別。金銀紙の太さによって機械を調整しながら、撚糸がつくられていきます。

そして、工場から撚りあがってきた本金糸を、刺繍職人が使いやすように、寺島保太良商店で小分けして仕上げとなり、本金糸が完成します。

本金糸が完成。刺繍屋さんへと渡され、織物などの工芸品に使われる

日常をハレの日に。受け継がれてきた日本の美意識を纏い、未来へつなげる

                                画像提供 寺島保太良商店

「tabaneをつくったことで、これまで知られていなかった金銀糸という素材を皆さんに少しでも知っていただくことができて、大変ありがたいと思っています。
伝統工芸を支える素材として裏方の存在だったものが、それ自体に魅力があるということを、私もtabaneを通して改めて知ることができました。伝統工芸も、現代に合わせて新しい価値を生み出していかなければいけない。そうやって、受け継がれてきた文化を残していきたいと思っています」(寺島さん)

                                画像提供 寺島保太良商店

ネックレスのマグネット部分はお祭りの金具屋さんからの真鍮を用い、その上には金銀糸を支える存在である「漆」で彩りを添えています。
京都のハレを彩る職人の力が合わさり、生まれたtabane。私たちの日常をハレの日に変えてくれる力があるような気がします。
 
伝統工芸は、永い年月をかけて次の世代にバトンが渡され、今、この時代までその美しさをつないできました。今を生きる職人はまた、次の職人へ、次の世代へとバトンを渡し続けています。
この美しいジュエリーの中には、そうした日本文化の受け継がれてきた永いスパンと、今また次の世代へ受け渡すために仕事をし続ける職人の思いが込められています。
 
そうして、できあがったものを私たちは身に纏い、街に出かける。

日本文化の中で、育まれてきた日本の美意識。
本物の金の光沢は輝き続け、軽く、柔らかく、女性らしさをひきたたせてくれるもの。
京都の伝統工芸の美意識が新しい形となったジュエリーを、現代の私たちが身に纏い、未来へとつないでいきたい。
職人の思い、そしてその技を、金銀糸とともに皆様へお渡しできたら幸いです。

文・撮影:さとう未知子
写真一部:寺島保太良商店提供
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