晩秋のブリュッセル【短編小説】
ちょうど10年ぶりに降り立ったブリュッセル国際空港は、晩秋の霧雨に覆われていた。あの時とは違うんだなと私は思う。10年前は、私は入社2年目の25歳の若者で、生まれて初めての海外出張で不安もあったけれど、それ以上に自分に対する会社からの期待も感じていて、順風満帆な将来の予感に心を躍らせていた。あのときは、凛と乾いた秋晴れで、出迎えてくれた現地に駐在している先輩にご馳走してもらった本場のベルギービールの美味しさに、長旅の疲れが癒された。
だが今は、あのとき務めていた会社は、もう無いし、自分の将来も決まっていない。
出迎えもない。先輩は、3年前にベルギーに支社を置くグローバル企業に転職し、2週間前にシリコンバレー本社に籍を移したところだった。
「お久しぶりです! 来月の中旬にプライベートでベルギー旅行に行きます! デュペル? でしたっけ? またベルギービール奢ってください (笑)」精一杯、明るく振る舞った私の送ったメッセージに先輩は、「色々聞いてるよ、大変だったね。実はここでの勤務は今月末までなんだよ。来月の頭からは本社勤務が決まっちゃってさ。悪いね、直接会って相談に乗ってあげられれば良かったのだけれど。」先輩は今も優しい。インターネット越しではあるけれど、私の悩みや愚痴を聞いてくれたのだった。
先輩とメッセージをやりとりした1ヶ月後の今、私は空港の中にあるパブのカウンターの心もとないスツールに座り、たったひとりぼっちでデュベルを飲んでいる。10年前と同じビールのはずなのに、長時間のフライトに晒された体に、しつこい苦みがつらかった。この10年間のどこで、ボタンをかけまちがえてしまったのだろう。タイミングやチャンスを逃しに逃し、ポッカリと空いてしまった人生の空白期間。この空白は、どこまで続くのだろうか。気分転換のつもりで行こうと決めたベルギー旅行のはずなのに、午前中からビールを飲んだところで、重たい気分は今日の天気と同様に晴れなかった。
そうだった。思えば、社運がかかった商談で一度失敗して以来、私は肝心な場面で萎縮してしまい、上手く話せなくなってしまう悪癖が身についてしまっていたのだ。もし、あの商談が失注していなければ。会社の経営が傾くこともなく、もっと責任あるポジションで自信を持って仕事ができていたのかも。
このままでは、せっかくの旅行なのに気が滅入ってしまう。デュペルをグラス三分の一ほど残し、重たい気持ちを振り払うように、空港の地下から出ている電車に乗って、ホテルのあるブリュッセル中央駅を目指すことにした。地上に出たら晴れてると良いな。だけど、短いトンネルを抜けて地上に出ると、車窓を流れるのはやっぱり灰色に沈んだ町並みだった。
電車は数駅に停まった後、市の中央に近づく頃に再び地下に潜る。目的の駅に到着し、エレベーターに乗って1階に上がった。売店で傘を買って外に出た。予約したホテルはブリュッセル市庁舎の目と鼻の先で、駅からも徒歩で10分もかからないほどの距離にある。日頃から散歩の好きな私は、フライト前には歩いて行くつもりでいたのだけれど、降りしきる雨の中、重いトランクケースを引きずって歩きたい気分にはとてもなれなかったので、タクシーを捕まえてホテルに向かうことにした。近距離の利用であることを英語とたどたどしいフランス語で詫び、ホテルの名前を伝えると、幸い運転手さんは英語を少し話せる気さくな人で、「雨のブリュッセルも歴史の重厚さが感じられて良いものだよ、何よりタクシーなら快適だしね」と私の心を慰めてくれた。
ホテルでチェックインを済ませたら、ちょうど正午を少し回ったところだったので、ランチを食べに行くことにした。1週間後に帰国の便のチケットを予約している以外には、予定は何も入れていない。フィーリングで決めよう。そう思って、11月の冷たい雨に濡れないよう、予定外の出費となってしまった傘を差し、カフェやレストランを探して歩く。今日は平日のはずだけど流石にお昼時とあって、どの店もお客さんでいっぱいだ。
今月の収入のあても決まっていないのに、呑気に旅行なんてして本当に良かったのだろうか。古都をぐるぐると歩き回き、そんな考えが頭をもたげてきた頃に、なんでもない交差点に人だかりを見つけた。各々スマートフォンを取り出して、しきりに何か撮っているようだ。
近づくと、人だかりの真ん中に立っていたのは、小便小僧だった。小便小僧は、全裸でどうどうと放尿を続けている。大人数に囲まれて、写真を撮られているのにもかかわらず。
その時だった。
にわかに雨が止み、雲の切れ間から光が指した。雨に濡れた小便小僧の裸体は、ヨーロッパの優しい秋の太陽の光に包まれて、神々しさを感じるほどにキラキラと輝き、彼の小便は美しい七色の虹を作り出した。「アメージング…」「ボー…」「ベリッシモ…」「モーイ…」「メーリーダ…」「ベル…」「ビューティフォー…」「アルンダウン…」。そこかしこから感嘆の声が漏れる。どこの国の言葉か分からなくても、世界各国の人々の心を震わせたことだけは分かった。
私の目からは、一筋の涙がこぼれていた。まだやれるかも知れない。傘を畳むのも忘れたまま私は、延々と迸るおしっこを、いつまでも、いつまでも眺めていた。
(了)
以上は、大好きなウェブラジオありっちゃありスパークの特別回「チ○ポストリーム」に投稿するために書いた短編の原案です。有料エリアにセンシティブ版を載せておきます。
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