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浪江のこと②

ようやくたどり着いた浪江。
駅で私を迎えてくれたのは、
サンプラザの看板だった。
サンプラザは、小さめのデパートだった。今でいうショッピングセンターのような店だったと思う。震災後になくなったのに、看板は2023年の秋もそのままだった。

浪江駅に「おかえり」と言ってもらったような気がして、古びた看板が妙に愛おしく見えた。

浪江駅。サンプラザの看板は昔のまま

子供の頃、家族でお正月に帰省した際、元旦か2日目に必ずお年玉を持って出かけたのがサンプラザだ。母が用意した正月用の新しい服を着て、サンプラザに行く。
最高の一年の始まりだった。
シルバニアファミリーのうさぎの人形、ミニチュア家具、リカちゃん、いろいろ買った。
一緒に行ったときに祖母が買ってくれた羊の人形「めーめーちゃん」は、今も手元にある。

駅の看板。小学生の頃と変わらない

サンプラザのほかに、ヨークマルベニという店もあったな、、、とかなんとか考えているうちにレンタカーを借りるタクシー会社にたどり着く。タクシー会社の古参の社員と世間話をしていると、祖父の名前も、家のある場所も知っていると懐かしい訛りで教えたくれた。

改めて、ここは父の故郷で、私のルーツだ、と思った。

レンタカーで5分も走らないうちに、祖父の家の跡地に着いた。
ヒマラヤスギ、コイのいた池の跡、シュロの木、駐車場だった草原、建物はもう何もないけれど、確かにここだ。
ここで私は、スジコやシャケ、ホッキ貝の並んだ食卓を家族や親戚と囲んだ。祖父の診察室に恐る恐る入って聴診器で遊んだり、みしみしいう廊下を通ってちょっと怖いトイレに行ったりした。
すぎのやという蕎麦屋から出前をとって、少しふやけた年越し蕎麦をみんなで食べた。座布団で要塞を作って基地にしたり、麻雀をする大人の邪魔をしたりした。
祖母のお葬式には、池のコイをずっと眺めていたのを覚えている。
水産物は、いつも木場商店という小さな店に父と買いに行っていた。
家があった敷地の前に立つと、いろんな時代の記憶がごちゃ混ぜになって押し寄せて来た。

現場の力は、すごい。

土地が歴史を覚えているのか、わたしの中の記憶が土地と共鳴するのか。よくわからないけど、すっかり忘れていた事がどっと蘇ってきた。家の間取りの詳細も、床のきしむ音も、診察室の匂いも。
遅すぎたけれど、土地がまだあるうちに来れてよかった。


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