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【内省備忘録】言葉は育むもの
(この記事は年末ごろのに書いたものなので、内容に若干ずれがあるかも)
noteに内省録を書くようになってから1ヶ月半ほど経った。
最初はとにかく自分の気持ちや考えを整理したくて、書き方や文章の並びなどなにも考えず、ただひたすらに書いた。
「これは自分の備忘録だから、とりあえず文章としての綺麗さは忘れよう」と思って、とにかく書いた。
私の昔からの悩みは、書く文章がどうしても稚拙になってしまうこと。
内省録をたくさん書いていくと、だんだん文章として少しでも美しくしたいと思うようになった。
理由は色々あるけど、人に見ていただく可能性があると考えたときに、相手に読みやすいと思っていただければ嬉しいということ、書いて読み返したときの自分の満足感につながるということが主な理由だ。
そんなふうに思うと、自分の気持ちを的確に表す言葉が思い浮かばないとき、少し嫌な気持ちになった。
語彙力のなさ、表現力のなさにばかり注目してしまうからだ。
文章の内容に沿った言い得て妙な表現や語彙をその場で熟考せずともぽんぽんと浮かぶことが文章を書く才能なんだろうと思っていたし、それがない自分がダメな人間に思えてくる。
だけど、元々お金をいただくつもりでもない文章を、そこまで思いつめて書く必要があるだろうか。
書くことだけではなく、私はいつも「最初からレベルが高くあることだけが素晴らしい」という無意識の価値観に踊らされる。
時々、そんな風に最初からなにもかもできてしまうような優秀な方がいるけど、そういう方と自分を比較して生きてきたからだろう。
文章を書くにあたっていい表現や語彙が思い浮かばないとき、それを悲しむ必要はなく、ただ探しにいけばいいだけなのだ。
幸運なことに、私たちにはインターネットがある。
AIに文章形式で教えてもらうこともできる時代だ。
語彙が豊富な人というのは本を読むことが好きだったり、自分で努力して言葉を調べるようにしたから語彙が豊富なのであって、生まれたときから頭の中に辞書があったわけではない。
だから、嘆いたり、語彙力がないと自己卑下する必要などない。
わからないものは探せる時代に生まれたのだから。
書くことだけではない。
誰かに大切なことを伝える時、言葉はただ思いつくことを言うのではなく、「探す」ことを忘れずにいようと思う。
語彙力がない表現力がない文才がないなど嘆いているだけではずっとそのままだ。
そういうのは嘆くものではなく、ただ、育むものだ。