【内省備忘録】エネルギーが有り余っているだけなのかもしれないという話
先日、ひとり旅にでた。
基本どこにでも1人で行けるタイプで、ひとり旅も何回かしたことがある。
ひとり旅はどこに行くのも、何を食べるのも、どこに泊まるのも、何にお金をかけるかも、自由。
私は公共交通機関代すらもケチりたくて、一人なら毎回とんでもない量を歩く。
このとき、私はとある悩みがあって、出発の前日まで旅をキャンセルしたくなるくらい、気持ちも体もだるかった。
私は何かに悩みだすと、基本的に頭がそれでいっぱいになる。
気を逸らすことを脳が拒否して、考えてもしょうがないことや解決策すらもないことを延々と考えて、感情的になって、物事を実際よりも大きく、深刻にとらえて休日も体が動かないほどになる。
だけど、このときすでに予約のキャンセルはできない。
電車に乗ってしまえば目的地に連れて行ってくれるのだからと自分を奮い立たせて準備をして、出発した。
到着してしまえば、宿にこもっているのはもったいないし近場でもいいからどこかに行こうという気分になる。
初日は近場をうろうろとして、マクドナルドを晩御飯に食べて就寝した。
2日目は丸一日時間があった。
朝10時くらいにベッドからノソノソと這い出して、準備をして電車で少し離れた街まで向かった。
以前にも訪れたことがある街。
広すぎず、街を歩いてまわることができる。
観光用のバスもあるが、そこはひとり旅、とにかく歩いた。
一日その街にいて、宿に帰ってきたときの歩数は28000歩にまで達していた。
旅の間も、頭の半分以上はその悩みのことについて考えていた。
だけど、旅の後半になると疲れてきて、頭の中にまだ悩みは存在はしているものの、あまり考えられなくなってくる。
気づくと目の前のことにだけ残りのエネルギーを使っており、悩みは脳のどこか片隅にこじんまりと、色を薄くして座っている感覚になった。
この時私が抱えていた悩みというのも、最初に、とある人間関係上の問題が起きて、私がもんもんと考えて被害妄想が始まり、最終的に私が暴走して、どうしようもなくなってしまった状態だった。
最初にこの問題が生じたときに、もっと別のことにエネルギーを使ってさえいれば「大した問題ではないな」と思えたのかもしれない。
たらればにはなってしまうが…。
話は戻って、28000歩歩いた日、宿の近くの銭湯に行った。
昭和の趣を残した、とても味のある銭湯。
結局この時も私はまだ頭の中で悩んではいるのだが、一日中歩いた疲れと、お湯の気持ちよさで、いつもみたいに深く考え込んだりできない。
人間、考えることは大事だと思っているけど、考えてもどうしようもない悩みなんかは、体を疲れさせて、その問題を少し遠めから見るくらいがちょうどいいのだろう。
帰りの電車で、友達にメッセージで旅の話を聞いてもらいながらふと、「エネルギーが有り余っていたんだなあ」と実感した。
運動は面倒くさいからたぶんこの先もあまりしないのだろうけど、友達とか家族とか音楽とか仕事とか、自分を高めてくれる存在にエネルギーを使えるように、これからも自分と向き合っていきたい。