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チビで鈍足Jリーガーの生き残る術 4 父の卓越した指導

167cm チーム最小×最遅の男が
J1の10番に! 山田直輝の挑戦


第1章
サッカー人生の扉をひらく

父の卓越した指導 −10年で9人のプロを輩出したサッカー少年団−


 兄がサッカーを始める際、父はいくつもサッカー教室を回った。
 しかし、スポーツのゴールデンエイジ(9〜12歳)期に身につけるべきことを指導できている教室はなく、「これでは十分に上達できないのでは…」と頭を抱えたそうだ。

 見かねた母の「だったら、あなたが教えればいいじゃない!」という一言がきっかけで、父は近所のサッカー少年団の指導者となった
 とはいえ、地域のサッカー少年団なので、平日は会社員として働き、週末にボランティア指導者として活動していた。

 僕ももちろん父の指導を受けて育ったのだが、

もし、
僕が幼少期に父の指導を受けていなければ、
その後のサッカー人生は全く違うものになっていたかもしれない。


 父の指導は、ハンス・オフト監督の影響を強く受けていた。

 父は、高校選抜でスイスの大会に出場する際、1週間のオランダ合宿に参加した。そこで初めてハンス・オフト監督と出会い、指導を受けたという。その後、マツダSC(現サンフレッチェ広島)の選手時代に、再びオフト監督の指導を受けた。

 父は「もし自分が幼少期から彼の指導を受けていたら、選手としてもっと磨かれていただろう」と語る。
 それほど、オフト監督の指導は、当時の日本人選手にとって、革新的で先進的なものだったのだ。

 オフト監督は日本代表をはじめ、さまざまな日本のチームで指揮を執った。そしてどのチームでも、選手の特性に合わせて、フォーメーションや戦術を柔軟に変え、結果を出した。


 父に初めて「ボールから目を離せ」と言ったのは、オフト監督だった
 それはつまり、周囲の状況を的確に把握し、プレーの判断スピードをあげろということを意味していた。
 父によれば、現在の日本サッカー協会の育成メソッドは、まさにオフト監督から伝えられたもの、そのものだという。

 しかし、僕の幼少期には、そのメソッドを教えてくれるサッカー教室は、少なくとも僕の家の近くには一つもなかった

 そこで父は、このサッカー少年団の子供達に、オフト監督のメソッドをしっかりと伝えることを決意した。
 ただ、父がオフト監督の指導を受けたのは大人になってからであり、子どもへの指導は、父の中でも未知のものだった。
 そのため、このメソッドをいかに子ども達に伝えつつ、子どもを楽しませ、成長させるかという点は、父にとっても新たな挑戦であった。


 結果的に、

父は10年ここで指導者を務め、
このメソッドを少年団に浸透させた。
 そして、その10年の教え子達の中から、なんと9名ものプロ選手が輩出された。


 その並外れた成果の中で、父が直接指導したのは、僕のほかに三島 康平・矢島慎也・角田 涼太朗という選手達だ。
 上手い子どもをスカウトしてきたわけでも、トライアウトを開催したわけでもない。それにもかかわらず、地域のサッカー少年団からこれだけの結果がでたのは、驚異的なことである。


 無論、それは父一人の手柄ではない。僕の所属していたサッカー少年団には、父の他にも素晴らしい指導者がたくさんいた

 当時の団長はアルゼンチンまでサッカーの指導法を学びに行くほど熱心だったし、そこで得た知識やノウハウを僕らにしっかりと還元してくれた。
 中でも団長考案のリフティング練習は、僕の“ボールとの感覚”を格段に上達させた。
 団長からは、「先ずはサッカーボールでリフティングをできるようにしなさい」「その次はテニスボールで」「最後はラグビーボールで」と、段階的に課題を与えられた。テニスボールまではなんとか出来るようになったが、ラグビーボールにはかなり手こずった。しかし、

ラグビーボールで30回リフティングが出来るようになった時には、
僕のサッカーボールの扱いは見違えるものになっていた。


 その他にも、陸上競技出身のコーチは、走り方から丁寧に指導してくれたし、サッカー初心者ながら非常に勉強熱心なコーチもいた。そのコーチは、0からサッカーを学び、指導法や子どもへの声かけも常に工夫していた。そして平日の朝から子ども達の自主練に付き合ってくれたのも、このコーチだった。
 たとえサッカーの経験がなくとも、その情熱や姿勢は、他の指導者を「もっと自分も頑張らねば」と奮い立たせたことだろう。良いチームには、指導者の間にもそういった活気があるものだ。

 幼少期にこのような最高の指導者達に恵まれたことは、紛れもなく、
僕のサッカー人生の中で一番の幸運である。


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