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チビで鈍足Jリーガーの生き残る術 2  サッカー一家に生まれて

167cm チーム最小×最遅の男が
J1の10番に!   山田直輝の挑戦


第1章
サッカー人生の扉をひらく

サッカー一家に生まれて

 1990年7月4日、僕 山田直輝は広島県広島市で生まれた。

 生後間もなく埼玉県に移り住んだのだが、なぜ生まれは広島なのかというと、僕の父である山田隆が、広島県を拠点とするマツダSCの選手として、日本サッカーリーグ(Jリーグの前身リーグ)でプレーしていたからだ。

父は元アジアユース(U-20)代表選手で、30歳の時に現役を引退した

 父の名誉のために言うが、170㎝と高身長ではないものの、僕と違って足は速かったそうだ。

 僕は、この17年間でたくさんのサッカー選手に出会ってきたが、選手は一様に明るく賑やかな気質だ。しかしうちの父は、サッカー選手であったことを疑いそうになるほど、僕が幼い時から寡黙で威厳があった。

 一方で子煩悩な一面もあり、夏は早朝からカブトムシや蝉を捕まえに、冬はスキーやスケートなど、今振り返れば、疲れが溜まっているはずの週末に、よく遊びに連れて行ってくれた。


 反対に、母は根っからの陽キャ人間で、人々の中心には母がいるといっても過言ではないような、太陽みたいな人柄である。

 母は152㎝と小柄だが、運動神経が抜群に良い。足も速い。

 何事も忘れっぽい僕が、今も鮮明に思い出す出来事がある。
 それは、僕が小学4年生の時のことだ。サッカー少年団のイベントで、母子対抗徒競走があった。
 順調に決勝まで勝ち進んだ母は、なんと団で1番速い6年生をおさえて、見事優勝を飾ったのだ!
 50mを7秒台で走る、みんなの憧れのお兄さんに、当時既に30代後半だった自分の母親が目の前で勝った衝撃と興奮は、今も忘れられない。

 そんな母は、50代で受けた体力測定で20代の数値を叩き出し、60代の時には、突如背後よりバイクで襲ってきたひったくりから、自慢の反射神経でバッグを守ったという。駆けつけた警察官は、そんなことは不可能だと信じてくれなかったそうだが、母の勇姿が防犯カメラに記録されており、さすがの警察官も、おみそれいたしましたと頭を下げたとのことだ。


 僕には兄もいる。
 3つ年上の兄とは、小さな頃から喧嘩をしたことがない。僕が一方的につまらない怒りをぶつけたことは幾度もあるが、兄はとても穏やかで優しく、いつも受け止めてくれたので、喧嘩にならなかったのだ。

 そんな兄とは、暇さえあればサッカーをして過ごした
 母に「いい加減に寝なさい!」と何度も叱られながら、狭い子供部屋で行う兄との就寝前のサッカー対決は、広いコートでやるサッカーとは違った楽しさがあった

 兄は、プロサッカー選手になる夢こそ叶わなかったものの、別の道でサッカーを追求し、現在は埼玉県の公立高校でサッカー部顧問を務め、30代の若さで国体監督(国民スポーツ大会サッカー競技少年男子 埼玉県監督)に選ばれている。

 大人になってからは、男兄弟がゆえ、べたべたした付き合いこそないが、たまに会えば、わずかな風呂の時間さえ惜しみ、一緒に風呂に入り、布団を並べ、明け方までサッカー談義に花を咲かせている。(妻からしてみれば、十分べたべたしているようだ)


 また、歩いて1分もかからない場所に住む従兄弟家族も、同様にサッカー一家である。
 伯父は埼玉県サッカー協会の副会長だ。
 その息子である僕の従兄弟は、オーストラリアでプロサッカー選手としてプレーしながら、現地でサッカースクールの経営やプロサッカー選手の代理人業等、精力的に活動している。


 そんな類稀なるサッカー一家のもとに生まれ育った僕が、サッカーに魅了され、

「プロサッカー選手になりたい!」と大きな夢を抱いたのは、遺伝子レベルでごくごく自然なことだったのかもしれない。




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