チビで鈍足Jリーガーの生き残る術 3 才能を育んだ両親の教育
167cm チーム最小×最遅の男が
J1の10番に! 山田直輝の挑戦
第1章
サッカー人生の扉をひらく
才能を育んだ両親の教育 −幼少期の過ごし方−
サッカー一家の血が流れる僕が、サッカーに興味をもつまで、時間はそうかからなかった。
僕は生まれつき外が好きだったらしく、家にいるととにかく泣き止まなかったそうだ。その泣き声は、家が割れんばかりで、母は、まだハイハイもできない僕を連れて、朝から晩まで公園で過ごしていたという。外でなら僕の機嫌が良かったのだろう。「直輝は外で育てた」と言われるのも無理はない。
その後、言うまでもなく、僕はやんちゃに育った。
しかし、兄のサッカー少年団への付き添い時だけは、当時まだ3〜4歳にも関わらず、ただじっとその練習風景を見つめていたという。
通常、少年団へ入団できるのは小学生以上であった。しかしその様子から、僕は特別に入団を許可してもらえた。
晴れて、4歳でサッカー少年団員となった僕。
生き生きとボールを蹴るその姿は、まさに水を得た魚のようだったという。
しかし、いくら父が元サッカー選手とはいえ、両親の間に「子どもをサッカー選手にしたい!」なんて野望は、これっぽっちもなかったそうだ。
両親の方針は「サッカーが好きならばとことん夢中になればいい、けれど人生の選択肢は多い方が良い」というものだった。
そのため、サッカー以外にも体操や水泳、バスケットボール、さらには英会話や書道、パソコン教室等、さまざまな学びの場を用意してもらった。
しかし、正直なところ、当時の僕にはサッカー以外の習い事はどれも退屈だった。
ある時、兄と連れ立って1ヶ月も書道教室をサボり、校庭でサッカーをしていたことが母にバレてしまった。その時の母は、もう怒りを通り越し、半ば呆れた上で、そんなにサッカーが好きならばサッカーに専念すればいいと背中を押してくれた。
さらに、両親は虫取りやかけっこ、木登りなど、体を動かす遊びにもよく連れ出してくれ、同世代の子どもたちと体を使って遊ぶ機会もたくさん作ってくれた。
このように、習い事や外遊びなど、多様な運動の機会を与えてくれた両親だが、そこには、幼少期に多くの動きを体験することが、運動神経向上の鍵になるという考えがあったらしい。全体的な運動能力を磨けば、最終的にはサッカーにも役立つという、策略的一面も含まれていたのだ。
その作戦が功を奏したのか、実際、僕はサッカー選手の中でも体の可動域が広く、スポーツで重要な「勘」にも優れていると自負している。僕の集中力は虫取りで、体力は外遊びと水泳で培ったものだ。さらに、体操やバスケットボールで得た跳躍力も今に生きており、僕は小柄ながらヘディングを得意としている。
そういえば、小学生の時に出場した旧 浦和市内の相撲大会で、大柄な子ども達に混じり、ひときわ小さな僕が準優勝したことがあった。
負けん気が強かった僕は、2位に終わったことが悔しくてたまらず、人目もはばからず泣きじゃくった。
その苦い思い出から、翌年は大会には出ないと決めていたものの、周囲の強い説得に押されて渋々参加することに。しかし、そこでも2位に終わり、やはり大泣きした。
けれども、体格が物を言うスポーツで、小柄ながら2年連続で準優勝できたのは、やはり、多くのスポーツに触れる中で培った「勘」が役立ったのだと思う。
そしてこの時、僕は相撲クラブから入団オファーを受けた。僕にとって、人生初のオファーである!
しかし、僕は全力でそれを嫌がり、お相撲さんになる未来を自ら閉じたのだった。
こうして僕は、両親が与えてくれた環境下で、足の速さこそ得られなかったものの、着実に運動スキルを伸ばしていった。
さらに僕は、学校の体育の授業も、気をぬかず全力で取り組んだ。そのため、大抵の種目で好成績を残せた。
しかし、水泳と持久走だけは、どうしても勝てない相手がいた。
それが、後に箱根駅伝に出場し、大学卒業後はトライアスロン競技で活躍することになる、大谷遼太郎君である。
彼は当時から水泳のジュニアオリンピックに出場する実力者だったが、僕は無謀にもライバル視していた。しかし何度挑んでも勝てず、小さな校内ですら1番になれない自分を不甲斐なく感じていた。
けれど、彼に挑み続けた日々が着実に僕を成長させ、やがて持久力は僕のストロングポイントの1つとなった。
体育の授業は、自分とは別の競技に打ち込む友人と一緒に体を動かせる、数少ない機会だ。
異種競技者同士で競い合える場はあまりないが、そうした相手と競うことで、サッカーの練習だけでは得られない能力を伸ばすことができる。
だからこそ、僕は体育にも手を抜かず、いつも本気で臨んできた。(まあ、単純に体育が楽しかったという理由も大きいのだが)
スポーツは、競い合ってこそ成長する。高め合えるライバルは、なによりも貴重な存在だ。
もし身近に敵わない相手がいるのであれば、勝てないことに卑屈になるのではなく、その出会いを成長の糧にすることが大切だと、今一度自分を奮い立たせてみてほしい。そうすることで、僕のように、自分の限界を少しずつ押し広げられるはずだ。
ただ、どのスポーツをしてみても、やはり、僕にとってサッカーは別格だった。他のスポーツは、僕の中で「習い事」や「体育の授業」という枠組みから抜けなかった。しかし、
サッカーだけは「習い事」ではなく、「サッカー」という独立した存在だった。
さまざまなスポーツを経験した中から、自分でサッカーを選んだという自信も芽生え、サッカー少年団に通うことは、僕の一番の楽しみになっていた。
僕は、幼い頃から常に、同世代の中で小柄なほうだった。
しかし、普段から3つ上の兄やその友人達にまじってサッカーをしていたので、自分よりも大きな相手と競うのが当たり前だったし、大柄な相手に挑むことへの恐怖がなかった。
さらに、負けず嫌いな僕は、相手が年上だろうが関係なく、負けて大泣きするのは日常茶飯事、兄にサッカーでもてあそばれた際には、悔しさのあまり激昂し、泣きわめいて石を投げつけようとした。
スポーツでは、少し年上の子と競うことで、下の子が大きく成長すると言われている。年上のライバルは、技術や体力面で一歩先を行く存在であり、その背中を追いかけることで、自然とレベルが引き上げられるからだ。
もし身近にそういった相手がいなければ、公園で遊んでいる少し年上の子ども達に、思い切って声をかけてはどうだろう。子どもというのは、案外すぐに打ち解けるものである。
僕は、サッカーがなによりも楽しかった。
だから、毎朝6時から少年団のコーチや友達とサッカーをしたし、昼休みも校庭でサッカーをしたし、放課後も当然のようにサッカーをした。
人見知りの僕にとって、サッカーは大切なコミュニケーションツールでもあった。僕はサッカーを通じて、年齢を超えた多くの友達をつくった。一緒にボールを蹴れば、みんなが友達になれたのだ。
その一方で、絵に描いたようなサッカー三昧の日々だったため、家族旅行の記憶は数える程で、うちはそういったものにあまり興味がない家庭なのだと思い込んでいた。
ただ、いよいよサッカーが本格的になるという時に、両親が思い切ってアメリカ・カナダ旅行へ連れて行ってくれた。それは今も大切な思い出だ。
その後、兄と僕が巣立つと、両親はせきを切ったように国内外を飛び回り、各地に旅行へ出掛けた。
それまで、両親の口から、本当はどこに行きたい、なにをしたいなどと聞いたことがなかったので、両親がいかに僕達兄弟を優先してくれていたのかを、僕はようやく知ったのだ。
そんな両親のおかげもあり、近所の同世代の子どもと比べると、自覚こそなかったものの、僕のサッカー技術は抜きん出ていたそうだ。
自覚がなかったというのは、当時は自分のレベルや、相手との差を全く意識せずに、ただただ純粋にサッカーを楽しんでいたからだ。
両親の話によると、当時まだ幼稚園生の僕が、味方のレベルによって、パスを出すスピードをコントロールしていたというから、今になって驚いている。
小学校高学年になる頃には、地域のサッカーキッズの中ではそれなりに有名な存在となり、当時のTBS人気番組『体育王国』へ天才サッカー少年の1人として出演した。
余談になるが、近所に住んでいた未来の妻は、この撮影の話を耳にし、野次馬に駆けつけたそうだ。しかし僕を見るなり、なんだか小さくて丸っこいなと、予想していた風貌とはかけ離れた小柄な僕に、面食らったという。
このように、両親が与えてくれた環境と支えのおかげで、僕は自分のペースでサッカーに打ち込み、サッカーを愛し、成長することができた。
その成長過程で得たものは、これからの僕のサッカー人生にとってかけがえのない財産となる。
幼少期にさまざまな動きを体験することが、運動神経の向上の鍵となる!一つのスポーツに限定せず、多くの運動を試そう。
外遊びには運動神経を育む要素がたくさんある。
スポーツは、競い合ってこそ成長する。ライバルの存在こそが、成長への近道!
少し年上の子と競うことで、下の子は自然とレベルが引き上げられる。