銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)
福岡藩の藩祖・黒田官兵衛(如水)が戦場で用いたとされる兜のこと。
これは「如水の赤合子」と呼ばれ、敵にとても恐れられたと伝わっています。盃やお椀をひっくり返したような形をしたあの兜です。
うるし塗りで施されたこの赤合子。もともとは独特な艶のある鮮やかな
赤褐色のものだったそうですが、現存する実物をみるとかなり痛みがひどく、時折補修をおこなっているようで、色調にもムラが目立っています。
岩手県盛岡市、もりおか歴史文化館に所蔵されている。
口の広がった椀を臥せた形状の兜で、鉄地に白檀塗り。
X線写真を見ると鉢部分は六枚張りで、上部はやや椎形、下部を裾広がりに形成し、頭頂部の高台部分は別に作り4カ所カラクリ留めしている。
鉢下端内側に、眉を打ち出し表裏を朱漆塗とした内眉庇が鋲留めされている。鉢表面は幾度かの修理のため金色、朱色、黒色など複数の色を呈しており、本来の色味を推定するのは難しいが、鉄地の上に堅牢な下地漆を施し、その上に黒漆塗とし、さらにその上に銀箔を張り、赤みを帯びた透漆をかけて白檀塗としたと推定される。しころは、割しころ、三段下り、二段以下を三分割して素懸威とするが、背面のみ裾板一段欠失のため、二段となっている。前立がなく、椀を臥せた特異な形状の兜は桃山時代の変わり兜の一種として捉えることができる。また、しころを、板札の割しころ、とするのは天正18年(1590)に豊臣秀吉から伊達政宗が拝領した、白糸威胴丸具足の熊毛椎形兜(重要文化財・仙台市博物館蔵)にもみられる形式である。
黒田孝高(如水)の兜は江戸時代から「如水の赤合子」と称されていた。この兜は黒田孝高が慶長9年(1604)3月、臨終時に家臣の栗山利安によろいと共に与えたと伝えられる。利安の長男利章は寛永9年(1632)に黒田家の内紛(黒田騒動)により南部家にお預けとなった。栗山家は姓を内山と
変え、南部家に仕えている。記録によればこの兜は黒川家から南部家に献上されているが、栗山家(内山家)との関係は未詳。以上のようにこの兜は、南部家に入るまでの経緯については未詳の点があるものの、簡素で大胆な形状であることや割しころ、とするなど、桃山時代の特徴を示す変わり兜として貴重である。紫曜。