「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」――と、わたしたちが観音さまの名を称えます。するとたちまち、観音さまはわたしたちに救いの手をさしのべてくださるのです。(1)
(2025/2/7)
『観音経 奇蹟の経典』
ひろさちや 俊成出版 2023/2/27
<まえがき>
・つまり、こういうことです。
「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」――と、わたしたちが観音さまの名を称えます。するとたちまち、観音さまはわたしたちに救いの手をさしのべてくださるのです。称名(しょうみょう)の効果は一瞬にしてあらわれます。
昔は、それじゃあまるで手品ではないか……と、そんな即効的・即物的利益を馬鹿にしていました。じつは、それを馬鹿にするわたしのほうがまちがっていたのですが、若いころ(いまだって若いつもりでいますが……)のわたしはそれに気づかなかったのです。
わたしのまちがいは、称名そのものが“現世利益”であることに、思いいたらなかったことです。「南無観世音菩薩」と称名して、その称名から得られる利益を別のところに求めていました。しかし、それはまちがいです。
称名そのものが、いちばん大きな利益なのです。
・そして、そのように考えれば、“現世利益”を説いた「観音経」は、決して低級なお経ではないのです。いや、それどころか、わたしたちの日常生活に、もっともっと読まれてよい大事な経典だと思います。
<仏教において奇蹟とはなにか>
<奇蹟の経典>
・まあ、それはともかく、『観音経』といったお経は、あまり深遠な哲学・思想を説かず、庶民的・日常的などご利益信仰を説いた経典だと思われてきた。つまり、いわゆる観音信仰である。衆生が一心に観音菩薩の名を唱えれば、観音さまはあらゆる災難からその信者を救ってくださるし、どんな病気だって治してくださるのである。それが観音信仰であり、『観音経』はそんな観音信仰を説いた経典であるわけだ。そういうことになっている。
<なにが奇蹟か?>
・奇蹟はあるのか、ないのか……?
奇蹟といえば、きまって最初に問われる質問がこれである。奇蹟はあるか、ないか――。けれども、じつはこの質問がいちばん厄介なのである。なぜなら、質問者が「奇蹟」というものをどのように考えているのか。どうにもはっきりしないからである。
<病気は「気の病い」>
・病気というものは、医者が治すのではないのである。病気を治すのは、あくまで患者自身である。医者はそのお手伝いをするだけだ。そのように、たいていの医者が言っている。
・しかし、そんな老人たちは例外にしても、病院にくる患者の大半が加療を必要としない人たちであるらしい。
・ごく常識的に言えば、大半の病気は暗示によって治るわけだ。
<病における人生>
・もう少しつづけてみたい。わたしたちが病気というものをどのように捉えるか、その捉え方いかんによって、わたしたちの『観音経』の読み方が大きく変わってくるはずである。
・わたしたちは健康と病気を比較し、健康を理想とし、病気を疎ましいものに思う。
・仏教では、生・老・病・死の四つの苦しみを列挙する。
・それこそが奇蹟である。病気を直接治す奇蹟もたしかに奇蹟であるが、病気になってなおかつ積極的に生きて行こうと考えさせてくれる奇蹟も、より大きな奇蹟である。そして、そのような奇蹟が、『観音経』に説かれている奇蹟なのである。
<大金がほしい>
・たとえば、信仰の奇蹟によって、金儲けができるか?
・奇蹟による金儲けは可能か?
結論を先に言えば、「可能だ」というのがわたしの答えである。
<奇蹟を拒否する精神>
・だが、わたしに言わせれば、奇蹟とはそういうものだと思う。そういうものだというのは、まず第一に、奇蹟ははっきりとこれがそうだと言えそうにないことである。多くの場合、それは偶然と解することもできるのである。
それから第二に、奇蹟には必ず代償がともなう。
・あるいは、ケチで金をためる人がいる。その人は、他人の苦しみに同情できぬ人間となってしまうだろう。いわば金の亡者、貪欲の鬼と化すわけだ。鬼にならなければ、蓄財などできっこない。
・わたしは、奇蹟というものは劇薬・麻薬みたいなものだと思っている。劇薬・麻薬はたしかによく効く。しかし、それだけに副作用も大きいのである。
・奇蹟は、ある意味で麻薬的だ。人間は安易にそれに頼ろうとする。
だとすれば、奇蹟は、奇蹟に頼らぬ強靭な精神に支えられてこそ、真の奇蹟でありうるのである。わたしはそう思う。そして、『観音経』が教えてくれる奇蹟は、そうした真の意味での奇蹟なのだ。つまり、『観音経』は、安易に奇蹟に頼らぬ強靭な精神に支えられた奇蹟について説いた経典である。
<その時、あなたは……>
<「観音経」は「法華経」の一部>
・だから、『観音経』を読みはじめることは、『草枕』の青年画家がやったように、一冊の本を途中から読むことになるわけだ。
その1冊の本とは――『法華経』である。
<「如是我聞」と「爾時(にじ)」>
・仏教の経典は、すべて「如是我聞(にょぜがもん)」ではじまる。たぶん、そんなふうに教わってこられた読者も多いはずである。
「如是我聞」とは、「かくのごとくにわれ聞けり」の意味である。
<菩薩とは何か?>
・無尽意菩薩(むじんにぼさつ)とは、「尽きることのない意志をもった菩薩」の意である。“菩薩”というのは、詳しい説明をはじめるとあまりにも長くなりそうなので、ここでは「仏に準じた存在」としておく。「仏に準じた」というのは、仏に次に偉い人である。位の上で仏の次にくる人である。
・「お釈迦さま、観世音菩薩は、どうして“観世音”と呼ばれるのですか?」あなたがそう尋ねたのである。それが、『観音経』のはじまりである。
<「善男子よ……」>
・「善男子よ……」と、釈尊が呼びかけられている。これは、無尽意菩薩がたまたま男子であったから、そう呼ばれたわけだ。
・五種不男――というのは、仏教では、完全な男性ではない者を五種に分類しているのである。
・衆生が一心に観世音菩薩の名を称える。すると、観世音菩薩がその衆生の音声を観じて、苦しみから救ってくださる。そこのところに、“観世音”の名の因縁があるのだ。それが釈尊の解答であった。
<観世音と観自在>
・『観音経』の「観世音菩薩」と、『般若心経』の「観自在菩薩」とが、同じ一つの菩薩の異名であることさえわかっていれば、それで充分である。
<音を観る>
・観世音菩薩は、また“観音菩薩”と略称される。そして観音菩薩は、さらに、“観音さま”の略称で親しまれている。お地蔵さん(地蔵菩薩)と並んで、わたしたち日本人に最も親しいほとけさまである。
・おかしいでしょうよ。“観音”とは、「音を観る」ことだ。ところで、音は観るものでしょうか?
・まあ、そんなことはどうでもよろしい。ともかく、楽譜がよめるということは、すなわち音を観ていることではないだろうか。晩年のべートーヴェンは、すっかり耳がきこえなくなったらしいが、それでも作曲はできたのである。彼は音を観ていたのであった。そう考えれば、「音を観る」ということばも、それなりの意味があるようだ。
<涙を流すな>
・しかし、それだけが、“観音さま”の呼称のゆえんではないだろう。観音さまが、“観音さま”と呼ばれる裏には、なにかもっと必然的な理由がありそうだ。
・そういえば、アルゼンチンの中部から北部にかけての田舎では、子どもが死んだとき泣いてはいけない、という言い伝えがあるそうだ。
・アルゼンチンでは、子どもが死ねば天使になるとされている。だが、親たちが泣けば、天使の翼が涙にぬれて、天国に行けなくなるのだ。だから、葬式は鳴り物入りでにぎやかにやるのだそうだ。
プカプカドンドンと鳴り物入りでにぎやかにやる葬式の裏で、しかし両親はじっと涙をこらえているのである。
・音にならない音――人間の苦悩を、観音さまはじっと観てくださっている。だから、“観音さま”なんだ。わたしはそう思っている。それがわたしの解釈だ。
<赤ん坊と母親>
・孤児院の保母さんに欠けているのは、この愛情である。決して保母さんに愛情がないわけではない。赤ん坊が叫べば、保母さんにしてもすぐにかけつけてくれるのである。しかし、呼ぶ前から赤ん坊のそばにいるような、そんな愛情や暇は、保母さんには期待できそうにない。それはやはり、ほんとうの母親だけがもっている愛情ではないだろうか……。
そして、観音さまである。
観音さまが音を聞くほとけさまであれば、それは保母さんのような愛情でしかないのであろう。
<七つの災難>
<声にならぬ音声>
・そして、観音さまは、わたしたち衆生が発する「声にならない音声」を観じてくださるのだ。だから、“観音さま”と呼ばれているのである。
・観音さまが、わたしたち衆生をそこから救いだしてくださる、その苦悩・災難とは何であるか……。
<七つという数>
・そして『観音経』は、七難を数えている。
1 火難
2 水難
3 風難
4 刀杖の難
5 鬼難
6 枷鎖(かさ)の難
7 怨賊(おんぞく)の難
<カテゴリーとしての火難>
・わたしの考えはこうだ。ここのところは、「火に分類される災難」と読むべきであろう。
・そして『観音経』は、そのあらゆる災難を七種に分類した。
・カテゴリーとしての火難――そう言えばよいか。もちろん、火そのものの災難もある。
<火事場の馬鹿力>
・したがって火難は、わたしたちのこころのうちにある怒り――怒りによる災難のすべてを含んでいる。わたしたちは、カッとなったとき、なにをしでかすかわからない。
・火事場では、健全な理性や判断力が失われてしまう。そうすると、人間はなにをしでかすかわからぬのだ。そういう災難が、すべて「火に分類される災難」であろう。
・観音さまは、そうした災難からわれわれを救ってくださるのである。救っていただくためには、「南無観世音菩薩」と、一心に称えるとよい。その声に、観音さまが応えてくださる。
<溺れたらあきらめろ>
・浮木につかまって水に漂いながら、彼が「南無観世音菩薩、なむかんぜおんぼさ」と称名している、そのときの心境はあきらめでなければならない――と、わたしは思うのだ。
あきらめということばは、現代ではあまりいい意味で使われていない。
・そうあきらめたとき、わたしたちは「南無観世音菩薩」と称名できるのだ。その称名によって、わたしたちは救われるのだ。かりに、救助が間に合わなかったとしても、わたしたちはもがきつつ、苦しみつつ死ぬのではなく、観音さまの名を称えながら、安らかに死んで行けるはずである。それが救いであり、そうした救いも救いでなければならない。それがあきらめの教えである。
そうだとすれば、水難は文字どおりの災難ばかりでない。
<お念仏とお題目>
・わたしはいま、お念仏を称えると言った。そして、お念仏でなくともよい、お題目でもいいのだと述べた。そこで、お念仏とお題目のちがいについて触れておく。
お念仏というのは、「南無阿弥陀仏」である。
・お題目というのは、主として日蓮宗の人たちが唱える「南無妙法蓮華経」である。
・仏教では、「仏法僧の三宝」という。「南無阿弥陀仏」は三宝のうちの仏宝に帰依したことばである。「南無妙法蓮華経」は、三宝のうちの法宝に帰依したことばである。では、三宝のうちの僧宝(すなわち、仏教教団)に帰依することを表明したことばはなにか……? それが、「南無観世音菩薩」である。
<一人によって万人が……>
・さて、その風難にあったとき、船中に一人でも「南無観世音菩薩」と称える者がいれば、ただちに観音さまは全員を救ってくださるのだ。そういう菩薩だから、“観世音”と呼ばれるのである。それが『観音経』で言われていることである。
<日蓮聖人の奇蹟>
・七難の第四は、「刀杖(とうじょう)の難」である。
・この「刀杖の難」については、やはりわれわれは日蓮聖人のことを語っておくべきであろう。
日蓮聖人は念仏謗法(ぼうほう)のために、竜ノ口の刑場において斬られかけた。しかし、依智(えち)三郎直重(なおしげ)が刀を振り上げたとき、海より煌々(こうこう)たる光が直重の目を射て、彼はついに日蓮聖人を斬ることができなかったという。『法華経』の行者であった日蓮聖人に起きた奇蹟の話である。
最近では、この日蓮聖人の奇蹟の伝説を否定する学者が多い。
<鬼の難>
・ところで、“三千世界”は、ふつうにいう「千の三倍」のことではない。仏教語では、これは「千の三乗」になるのである。
古代インド人は、われわれの住むこの世界の中央に、須弥山というものすごく高い山があると想像した。この須弥山を中心に四大洲があり、その大洲の一つにわれわれ人間が住んでいる。この須弥山を中心にした世界が一つの小世界である。そして、この小世界が千集まると小千世界ができあがる。さらに、小千世界が千集まると、中千世界になり、中千世界が千集まって大千世界ができあがる。
この大千世界は、千を三回集めたわけであるから、“三千大千世界”または“三千世界”というのである。つまり、千の三乗の意だ。十億になる。
・夜叉……暴力をふるう悪鬼。羅刹……人間を殺し、その肉を食う悪鬼。いずれにせよ、この世の中には鬼がいっぱいいるのだ。観音さまは、わたしたちをその鬼の難から救ってくださる。ありがたいことだ。
<有罪も無罪も……>
・だからこそ、親鸞聖人は『歎異抄』のなかで語られたのだ。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
善人が極楽往生できるのだから、ましてや悪人が往生できるのは明々白々のこと――。親鸞聖人はそう断言されたのだ。そんなパラドクシカルな表現でもって、阿弥陀仏の慈悲が善人・悪人を超越してすべての衆生に及ぶものであることを言われたのである。
<第七の難――怨賊(おんぞく)の難>
・七難の最後は「怨賊の難」である。
・風難のところでは、船中の誰か一人が「南無観世音菩薩」を称して、全員が救われた。状況は似ているが、ここでは一人の人間の提言によって、全員が称名するのだ。その点で、少しちがっている。
なるほど、考えてみれば、相手は盗賊である。盗賊の難から免れるには、やはり全員の協力、和が必要である。称名はその和をもたらしてくれる。
なに気なく書かれているようであるが、よく考えられているのだ。『観音経』は、文学としてもすぐれている。
・「あのね、観世音菩薩の威力・神力のすばらしさは、このように巍々(ぎぎ)たるものなんだよ」
巍々たる……という語は、山の高く聳えるさまをいう。山のごとくに高く大きな力をもっておられるのが、われらの観音さまである。
・七つの難からわれら衆生を救ってくださる大菩薩――。それが観音さまである。
<わが心のうちなる三毒>
<わが心のうちなる仏と鬼>
・「わが心にぞ、鬼は棲む――」前章でわたしは、ちょっとそのことを言いかけた。しかし前章は、わたしたちがこの人生において遭遇する外面的・物理的な災難について述べたものである。
・ところで、「わが心にぞ、鬼は棲む――」であるが、たしかにこのことばは真実であると、しかしこれはことがらの半分しか言っていないのだ。
・「わが心にぞ、仏は棲む」――と。それを付け加えてこそ、ことばは真実になる。
<三毒の第一 ――むさぼり>
・さて、仏教では、わが心のうちにある鬼を「煩悩」と呼ぶ。煩悩とは妄念であり、心をかき乱すものだ。煩悩のうちでも、とりわけ基本的な三つは「三毒」と呼ばれる。
・三毒とは――
1 貪欲(どんよく)……むさぼり。
2 瞋恚(しんに)……いかり。
3 愚痴(ぐち)……おろかさ。
である。わたしたちの心のなかで、このような三毒が鎌首をもちあげてきたとき、いったいわれわれはどうすればよいか……? そのときは、「南無観世音菩薩」と称名すればよいのだ。『観音経』はそう教えてくれている。
・貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒という。ふつうには「貪欲」を三毒の第一に挙げるのだが、『観音経』は「婬欲」を説いている。婬欲とは、セックス的な欲望である。
・では、なぜ、「南無観世音菩薩」と称名することによって、貪欲なり婬欲なりを離れることができるのか……? それはたぶん、称名がわたしたちの心のこわばりをほぐしてくれるからではなかろうか。
<春画と称名>
・怒りのこころが生じたときも、静かに観音さまを念じよ!『観音経』はそう教えている。
・“笑絵(わらいえ)”といえば、春画(ポルノグラフィー)のことである。なぜ“笑絵”というかといえば、「心がなごむ」という意味で“和楽絵”と呼ばれていたのが、その語音からの連想で“笑絵”となったそうだ。
ところで、この笑絵には、江戸時代の武士にとっては別の効用があったらしい。「春画を武器の入れ物などに入れておくと、腹を立てることがあって、その武器をとり出そうとしたとき、それをいやでもみることになる。
すると、つい関心が移って、人を傷つけようなどという気持ちは消え失せてしまう」
<七人の侍の話>
・もう一つある。三毒の最後は、愚痴(ぐち)――おろかさである。
「もし愚痴多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬(くぎょう)せば、すなわち痴(ち)を離るることを得ん。」
<あるがままに見る>
・仏教では、「如実知見(にょじつちけん)」という。あるがまま(如実)にものごとを、知り、見ることである。それができれば、われわれは悟りを開いたことになるのだ。したがって、それができるように、わたしたちは修行せねばならない。
・観音さまの正式の名前は、“観世音菩薩”……『観音経』(すなわち『法華経』)での呼称。“観自在菩薩”……『般若心経』での呼称。と、二つあった。
・愚かな凡夫でも、観音さまを念ずることによって、迷いを離れることができるのだ。そのように『観音経』は教えてくれているのである。
<常にまさに心に念ずべし>
・「無尽意菩薩よ、このように観世音菩薩の力はすぐれたものであり、
饒益(にょうやく)(他人に利益を与えること)するところが大きい。だから、衆生は常に観世音菩薩を一心に念ずべきなのです」
釈尊はそう語っておられるのである。
<性を超越した存在>
<男子か女子か>
・ところで、『観音経』は、この問題についてちょっと不思議なことを言っている。
――男の子が欲しいと観音さまにお願いすれば、頭がよくて徳のある男の子が得られるのだよ。女の子が欲しいと観音さまにお願いすれば、器量がよくて気立だてのやさしい、誰からも愛される女の子が得られるのだよ、したがって、無尽意菩薩よ、観音さまにはこれだけの力があるのだから、観音さまを拝めば福が得られる。だから衆生は観音さまの名号をたもつべきなんだよ、と。
言っていることはよくわかるが、どうもどこかがちがっているように思えてならない。
<お経の読み方>
・お経を読むとき、わたしはあまりその内容を疑いたくない。書かれているとおりに信ずるのが、わたしは正しいお経の読み方だと思っている。なぜなら、わたしたち凡夫の小賢しい智慧でもって、経典の記述をあげつらうことができそうにないからだ。
<観音さまの口ひげ>
・けれども、じつをいえば、観音さまは男であられる。「じつをいえば……」というのは、仏教教学での考え方である。
伝統的な仏教学では、女性は仏や菩薩になれないとされてきた。
<地上の三角関係>
・しかし、である。伝統的な仏教学においては、観音さまが男性とされたとしても、現代のわたしたちはなにもそれにこだわる必要がないのかもしれない。われわれとしては思いきって、観音さまは性を超越した存在である、と言ってよいのではなかろうか……。
<お浄土は男性世界>
・伝統的な仏教教学では、女性はまたお浄土に生まれることができない、とされている。いや、その言い方は、ちょっと不正確である。仏教では、女性は仏になれぬとされているから、女性のままでお浄土に生まれたら困ってしまう。お浄土においても仏になれぬからだ。それで、お浄土に生まれるときには、全員が男性となって生まれるとされたのである。
お浄土――というのは、仏国土である。ほとけさまの世界であり、ほとけさまが主宰しておられる世界だ。
・「西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽)世界がある。そこに、いま、アミターバ仏(阿弥陀仏)は人間の御者として住む。そして、そこには女性は生まれることなく、性交の慣習は全くない。汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に坐る。」
<縁起の思想>
・仏教では「縁起」の思想を説く。縁起というのは、要するに持ちつ持たれつの関係である。この世の中は、縁起の世界である。
たとえば、原因と結果――という関係(縁起)がある。
・観音さまは、男性でもなければ、女性でもない。そして同時に、観音さまは男性であり、また女性であられる。そのことを、わたしは言いたかったのだ。
<無功徳なる功徳>
<無功徳の功徳>
・「無功徳」であってこそ、はじめてわたしたちはその行為に打ち込める。そして、その行為に打ち込めること自体が、大きな功徳なのである。それが、信仰の世界における論理なのだ。信仰の世界の論理は、本質的にパラドクシカル(逆説的)である。
<観音さまの住所はどこか>
・伝承によると、観音さまは南インドのポータラカ山に住んでおられるという。ただし、実際に南インドにポータラカという名の山があるわけではない。一種の伝説上の山名である。
<無限の姿とかたちをとる観音さま>
<エコノミック・アニマル>
・日本人がエコノミック・アニマルと呼ばれるようになって久しい。そう言った外国人よりも、日本人のほうがそのことばを愛用しているようである。
<ルソーの『エミール』>
・『エミール』いえば、フランス啓蒙主義を代表する思想家=ジャン・ジャック・ルソーの教育論書である。そのなかで、たしかこんな主張がなされていたはずだ。
――人生のさまざまな時期、段階には、それぞれ固有の目的があり、完成がある。それ故、未来の幸福のために……といった理由で、子どもの現在の幸福を犠牲にすることは許されない。
<“遊び”の意義>
・つまり、観世音菩薩はさまざまなお姿に身を変えられて、わたしたちの前に出現される。それはどんな姿か?……と、無尽意菩薩がお釈迦さまに尋ねているのであるが、そのとき無尽意菩薩は“遊ぶ”といったことばを使われている。それはいったいどういう意味か? わたしは疑問に思ったのである。
・そう考えれば、いささか逆説的ではあるが、“遊び”のなかにこそ真の人生があるのかもしれない。ともあれ、“遊び”を忘れ、“遊び”を否定してしまった日本人のエコノミック・アニマルぶりは、どこかおかしい。
<老婆は忍土である>
・「観音さまは、どういうお姿で、この娑婆世界に遊ばれるのですか?」
無尽意菩薩は、そう釈尊に問い尋ねられた。
・“娑婆”という語は、サンスクリット語の“サハー”を音写したものである。意味をとって訳せば、「忍土」「堪忍世界」となる。わたしたちが生きているこの世界のことだ。
この世界は、苦しみの世界である。たしかに楽しいこともあるかもしれないが、その楽しみは永遠にはつづかない。いつか苦しみに転ずる。会うは別れのはじめである。楽しい女性も、いつかは老婆となる。とすれば、美がかえって苦しみの原因であるわけだ。この世は本質的に苦の世界だ。
<観音さまの変身>
・観音さまの住所は南インドのポータラカ山だ、と記しておいた。しかし、観音さまは、ポータラカ山の宮殿でのんびり昼寝をしておられるわけではない。さまざまな姿に身を変じて、わたしたちのこの娑婆世界に“遊び”にきてくださっているのだ。その観音さまの変化身(へんげしん)を、これから釈尊が列挙される。
・人間には好き嫌いがあるからである。だから、学校の勉強だって、好きな先生から教わる教科のほうが進歩も早いのである。
それが、観音さまがさまざまな変化身でもってわれわれの前に現われてくださる理由である。好き嫌いのはげしいわたしたちのために、その人がいちばん教えを受けやすい姿かたちをとってその人の前に現われ、そして法を説いてくださるのである。
たとえば、仏の姿で出現される。それは、仏から教えを受けたいと思っている人のためである。その人のためには、仏の姿をとるのがいちばんいいからである。
・そしてまた、声聞(しょうもん)の姿になられる。声聞というのは、釈尊の教えによって悟った人である。しかし、辟支仏と同じで、他人のために法を説こうという気がない。自分一人でその真理を楽しんでいる、程度の低い仏である。しかし観音さまは、喜んでそんな声聞の姿に身を変じられるのだ。なんとかして、わたしたち衆生のすべてを救ってやろうとして……である。