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15歳 俺は情けをかけられるために3年間血反吐をはきながら地面に這いつくばってきたわけじゃねえぞナメんな

小学生時代、僕は肥満児だった。

目を見張るほどではないかもしれないが、標準体型とは言い難かった。だが、運動は好きだった。走るのは遅く飛び箱や鉄棒は上手くはなかったが、球技が好きで休み時間や放課後はドッチボールやバスケをして過ごした。

1番好きになったのは野球だった。小2の時に友達に誘われてなんとなく少年野球チームに入った。上手くもなかったし、たいして好きでもなかったはずが、小5くらいからなんとなく毎週日曜日の少年野球を楽しみにするようになった。それまでは雨で中止になった時にいつまでも布団の中でアニメを観ていられる方が嬉しかったのに。それがいつしか雨を疎むようになり、コーチに土曜日の自主練習に誘われると喜んで参加するようになった。コーチは僕に目をかけてくれ「おまえは四番を打てる素材だ!」とか言いながら球が見えなくなるまでトスを上げてくれた。「んなわけねー」と思いつつもバットを振る手に力が入ったのを覚えている。練習が終わった後、コーチの家でご馳走になったインスタントラーメンが最高に美味かった。

中学では当然野球部に入った。

僕らの入学とともに赴任してきた顧問は、現代ならば速攻懲戒免職ものの暴力教師だった。中学生の少しの不手際を容赦なく罵り、殴りつけた。同級生の中には練習試合中に「集中していなかった」という理由で顔面を殴られ、鼓膜が破れた者もいた。練習自体も辛く厳しいものだった。休みは年間で3日程度。ちょっとした悪さの罰も兼ね、朝練で5時から8時までランニングさせられていた時期が随分長かった。毎朝20㎞以上走る生活。授業なんてただの部活の休憩時間。放課後の部活の時間が恐怖だった。ナイターの設備があり、大会が近づくと怒声にまみれながら毎日20時過ぎまで練習した。
当然それまでいた部員の多くは反発して退部したし、残った部員も練習についていくことができなかった。3年生の先輩は30人近くいたが結局3人しか残らなかった。同級生も20名以上入部したが、引退時には半分も残っていなかった。だが、部員の数と反比例して万年地区2回戦負けだった野球部はみるみる強くなっていった。僕らが3年生になったとき、江戸川区では優勝が当然の強豪校になっていた。

僕はそんな野球部を引退までやり切った。どんなに辛くても逃げなかった。真夏の炎天下の練習で延々と走り続け、倒れたこともあった。さすがの暴力教師も「休んでいろ」と言ったが、意識朦朧としながらも「走ります!」と叫んでよたよた走り続けた。気づけば肥満体だった身体も普通体型になっていた。3年間、身長は伸び続けたが遂に体重は1キロも増えなかった。
だが、結局スタメンにはなれずじまいだった。たまに試合に出ると緊張で足が震えてボールなんて見えなかった。紅白戦では滅多に失点しないピッチャーの球だって打てるのに。試合に出られれば。経験さえ積めたら。守備は確かに下手くそだけどバッティングならレギュラー達に負けないのに。江戸川区の対戦チームの出場選手を見るたび「俺の方が練習してきた」「補欠でも試合に出たら俺の方が絶対にうまい」そう信じて自分のプライドを守っていた。

中3の最後の夏、江戸川区大会決勝。僕の名前がスタメンで呼ばれた。
その意図が分からないほど僕は馬鹿ではなかった。中学校の数が多い江戸川区は2校東京都大会に行ける。つまり決勝といいつつも、勝敗はさほど重要ではなかったのだ。この温情は深く僕の心を傷つけた。温情ではなく同情だと感じた。そして同情とはこんなにも男の心を傷つけるものなのだと初めて知った。
顧問に言おう。
僕はスタメンじゃなくていい。いつも通り代打で良い。レギュラーをスタメンにしてくれ。
僕は補欠でも、この三年間に誇りを持っている。それを踏みにじられたような気がした。だが、勇気が出なかった。あの暴力教師に歯向かうようなことを言うのは生半可な気持ちじゃできない。ぐるぐると言うことを頭の中で反芻しているうちに時間だけが経っていった。

そのうちにふと気づいた。「これが俺の引退試合だろうな。」

都大会でも代打の出番はあるかもしれない。でも、少なくともスタメンで試合に出れるのは最後だろう。そんなこの試合、俺がスタメンで試合に出ないと拗ねて何が残るのか。ベンチに座ることが本当に俺のプライドなのか。

いや。

今こそ見せてやるときじゃないのか。スモールベースボールを好み、守備と走塁に力を入れ、バントやスクイズ、エンドランで点を取ってきた顧問に。確かにおかげで俺たちは強くなった。江戸川区では圧倒的な強さだった。だが、私立中学も出てくる東京都大会の強豪には通用しなかった。もしかしたら打ち勝つ野球も必要だったんじゃないか?ここに大砲がいたんだぞ。確かに守備も下手で足も遅いけど、レギュラーメンバーより打ってみせる。俺をもっと使えと三年間ずっとずっと唇をかみしめてきた。今こそ。俺を使えば良かったと顧問に後悔させてやる。それこそが俺のプライドを守ることなんじゃないのか。

相手は江戸川区大会の決勝で必ずあたる中学だった。この学校だけはウチの中学と同等の力を持っていて、僕らの代になってからのこの一年間の公式戦では必ず決勝で対戦し、すべて延長戦。そして1-0で決着していた。この二校が江戸川区では図抜けて強かった。しかも相手の先発はエース。相手に不足はない。必ず打つ、そして証明するんだ。そう決心した。

8番バッターの僕までランナーは1人も出なかった。それはお互いさまで0-0の試合が続いていた。3回表ワンナウト。打席に立った僕の足はもう震えてはいなかった。アピールは必要ないのだ。ここで打ったからといって都大会でスタメンになんてなれないことはよく分かっている。逆にちょっとのミスで交代させる腹づもりでもないだろう。つまり、どんな結果だろうがこの試合が最後なのだ。そう思うと、ふっと力は空に吸い込まれていった。

初球はストレート。区内屈指の速球が決まった。二球目はカーブがくるかもな。頭の片隅で準備しておいたことが現実になった。肩口から真ん中に甘く入ってきたカーブをとらえ、ライナーがレフト前に飛んで行った。打った瞬間に分かった。完璧なヒットだ。やった。やってやった。誰もヒットが打てなかった相手エースから打ってみせた。見たか。見たか見たか見たか!これが俺のバッティングだ!
一塁をまわってベンチを見ると同級生たちが手を叩いて喜んでくれているのが見えた。みんな、俺が補欠だけどそれでも一生懸命に練習していたことを知ってくれている。誇らしい気持ちで一塁に立った。笑みを堪えられない。一塁ベースから周りを見回す。いい景色だ。ちょうど正面の応援スタンドに母を見つけた。

ー来ていたのかー

滅多に試合など見に来なかったのにどうしたのだろう。僕はあまり母が観戦に来ることを快く思っていなかった。反抗期まっさかりだったし、試合に出ていない自分を見られたくなかった。今日は僕が試合に出ると誰かが連絡したのかもしれない。

母は泣いていた。人目もはばからずに号泣していた。

その時、僕の脳裏にこの3年間がフラッシュバックした。朝5時の朝練のために4:30に起きる僕。時に寝坊して朝練に遅れ、顧問にボコボコに殴られる僕。部活が終わると同時におにぎりを頬張りながら塾に出かけていく僕。一日の終わりには疲れ切って毎晩夜中に風呂の中で寝てしまう僕。常に寝不足で疲れていて余裕がなくてしんどくてイライラしていた。学業でも試験前は夜中の3時まで勉強して学年順位一桁の成績を保っていた僕は、僕が一番大変なんだと思っていた。いつも僕、僕、僕・・・悲劇の主人公かのように、僕は僕のことばかりを考えていた。
でも、フラッシュバックした僕の姿のすぐ横にはいつも母がいた。朝4:30には朝食がもうできていた。胃が動かないけど食べないと練習に耐えられないからと、おかゆやうどんなど食べやすい朝食を僕が好きな味にアレンジしてくれた。寝坊して恐怖と焦りに支配された僕は、自分が悪いのに母を罵った。母は僕を責めることをせず謝った。部活が終わって家のドアを開けると、必ずおにぎりと塾のカバンを持った母が待ち構えていた。風呂で寝ていると母が毎晩声をかけて起こしてくれた。夜中に勉強していると時々様子を覗きに来て「勉強しすぎなくてもいいんじゃない」と心配した。

僕より大変な人がこんなにそばにいたんじゃないか。僕が勝手でやっている部活を続けるために、こんなに大変な思いをしながら3年間も支えてくれていたんだなー

恥ずかしいが、僕はその瞬間まで一度もそのことに気づかなかった。ずっとずっと自分のことしか見えていなかった。一塁ベース上でそのことに気づいて、母が滲んだ。


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