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わたしと自社の成り立ち(1)

創業者の先々代(父)

わたしと自社を語る上で父は避けて通れませんね

今考えれば、なるべくしてなった…

そう言ってしまえば簡単ですが、当時のわたしは21年前に地元の高校を卒業していわゆる社長の息子(ぼんぼん)…今は言わないかな?苦笑
として、入社しました。

実は入社前からアルバイトで当時社内の誰も使ったことがない
3次元CAD、CAMを使い
(ドラフターという製図機で図面を書き、プログラムはGコード、Mコードの独自ソフトで演算)

簡単に3D図面やプログラムが作れるので
正直”こんな簡単な仕事でお金もらえるのか楽だな”なんて事を考えてました


ドラフターでの製図風景 ※画像サイト引用

正直な所、就職してからも毎日2時~3時まで飲み歩き
翌日8時に出社のような生活を繰り返してました

父(先々代)は元々製造をベースに営業、経理、人事、総務
全てを担うスーパーマンでした。

そんな父とは入社後1年後にはよく言い合いをしてました。

わたし『プログラム上はこうだから、こうならないとおかしい!』
父『実物が望む形になっていないなら、改良しなさい!』

そんな日々の繰り返しで軋轢が生まれていきました。

父について

わたしの父を紹介します。
出身は宮城県村田市で6人兄弟の次男で双子(叔母さんについては後々紹介します)
中学校卒業と共に東京へ出稼ぎ労働者として単身上京
就職は当時花形と言われた”金型”
そこで実績を重ね、埼玉で起業
一時は雑誌で特集されるほど、稼いでいたらしい(本人談)

その後水害で会社を清算し、あてのないまま福島県へ。
そこで裸一貫で起業しなおし、今のケイエスエムの土台を作りました。

わたしは埼玉で生まれ、福島に来た時は1~2才ぐらい。
幼少期の思い出は父、母共働きで、忙しく、
夕食は母が帰ってきて作り、一緒に食べまた仕事に出掛ける。
それでも年に何回かの休みには家族で近くの山に出掛けたりした思い出が鮮明に残っています。

わたしが中学生になる前には事業も安定しました。
父は不屈の精神を持たれていたのだと。今になり強く感じてます。

急な宣告

わたしが20歳になるころ、父は一度胃がんの手術をしていました。
度々入院はしますが、仕事には出社していたのでそこまで気に留めませんでした。

ですが、2回目の手術後は出社はしますが、入退院を繰り替えす日々が一年位続きました。
その頃には少しずつわたしにできる事を。と考え始めてました。

『迎えたその日』
ちょうどその日は親戚皆でお見舞いにいこうと、皆で病室に行き父とも会話をし、帰り道に”たまたまばったり会った”主治医の先生に質問しました。

わたし『先生、○○○号室の息子ですが、今後の経過を教えて下さい』
先生『○○○号室の佐藤さん?今夜がヤマですね』

先生はそのまますたすたと廊下を歩いていきました。
わたしは何が起こったか理解できず、色々な感情が溢れてきました。

落ち着き病院に戻り、親戚の方々に事情を説明しましたが、父はまだ元気でした。親戚の一部は残って頂き、私たちは一度家に帰ったものの病状が悪化したのはその日の夜。

先生が仰る通り、病状は急変し家族、親戚で病院に翌日朝に行きました。

ただ、わたしはその日、(父の代わりに営業の仕事を半年前からやっており)お客さまに朝一で打ち合わせを入れて頂いてました。

病室に着くと、昏睡状態なので直観的にお客さまとの打ち合わせに行ったらもう会えないな。これで最後だな。
そう感じましたが、父ならどう云う?と自問しました。

『お客さまを第一にしなさい』
家族、親族の猛反対を押し切り、客先に向かう車中の事は今でも思い出すと胸が詰まります。

実は父がなくなってからのお話には不思議な話がありますが、それは後日。

21歳、営業経験ほぼ無し⇒月受注目標700万円

会社では先々代の急逝から約1週間後、先々代(父)から、母へ代表権が移りました。
母は先々代の傍ら経理で支え続けた、経理畑出身です。
わたしは先代(母)から、月受注700万円ないと会社潰れるからね!と

若いわたしは思いました。どうやって?やり方は??
実は営業でのわたしの経験と実績は月100万円にも満たない受注ばかりでそれを7倍実施する?方法は社内には皆無でした。


失敗の連続、重なる社内との軋轢

ただ、やるしかないので7倍働きました。
365日で24時間あるとすると、363日で1日20時間位仕事しました。
営業に行き、とってきた仕事を製造して、そしてお客さんに納品する。

実はこの時、お客さまからの仕事は激減し、職人さんは転籍もされており
社内にはわたしと同期のスタッフを中心とした体制に変わらざるを得ませんでした。

ただ問題はすぐ発生しました。
わたしがその時にやっていた営業は”御用聞き”でした。
お客さまには『他社よりも安くやります』『日程が無くてもなんでもやります』

薄利多売

経理出身の社長は会議で 赤字続きなの理由は?と、問えば
同期スタッフ(後にイノベーションの源泉になる)から
営業が能力がないから、製造はどうやっても赤字にしかなりませんよ!

わたしは
誰のために自分の時間なんて二の次にし、仕事を取ってきてると思ってるんだ?と、はらわたが煮えくり返す程の怒りを覚えたのは忘れません。

それでも仕事をとらざるを得ない。
でも社長からの金額面の追い込みや製造のスタッフからのプレッシャー。
そんな繰り返しを約5~6年は続けたと思います。正直、精神力や胆力が鍛えられたのもあの時があったからだな。と強く思います。

そんな板挟みの中で『戦う土俵を変える』という意識が芽生えました。

お客様の課題(ニーズ)を聞いて見えた光明

当時、金型業界は韓国企業、中国企業の台頭で
日本の組立サプライヤーは海外工場に金型を発注し、4割程度安い金額で輸入し生産をする。そんな商流がありました。
但し、輸入をした金型の修理や改造。の業務を国内メーカーが受け入れず組立サプライヤーの社内で処置を行うが上手くいかない。
というお客の課題を(今ではニーズ)を捉えました。

そこからは夜、夜中だろうが生産で故障する度に飛んでいきすぐに引き取り
修繕を行う。他社製作金型の修理改造という新しい強みができました。

その実績を買われ次の困りごととして、メーカーからの開発案件の相談も聞ける関係性が構築されていた。(当時、組立工場へメーカー開発部から開発の相談があるが受けられず、サプライヤーにそのまま委託する。そしてそのサプライヤーも別なサプライヤーに委託する。といったたらい回し)

そこからは相見積りで戦わず、開発予算の交渉。

わたしがその当時感じていた土俵は自社中心ではなく、顧客の課題を中心として生まれてくるものではないか?と感じてました。(あの時の直観は当たっていると思います)

潜在ニーズに提案を!自社の強みへ

色々な方に良くして頂き、色々な開発に携わらせて頂きました。
そして、5年前位からは”潜在ニーズ”に提案を行う
付加価値をつける取組も今では自社の強みになっている。と感じてます。

支えてきた企業DNAとスタッフ(家族達)

恐らく、先々代が亡くなった時に
わたしを始め、先代の社長へも、そしてその当時のスタッフ達にも
そして今のスタッフ達にも”不屈の精神”と”お客様第一”という
創業者のDNAがしっかりと引き継がれたのだろうな。と感じております

そして何より、弊社の事業は『挑戦』と『提案』という両輪をしっかり実践できるスタッフ=(家族達)の努力と知恵に尽きます。

今回も長編になりましたが、わたしと自社の成り立ちとなります。
成り立ち(2)も、その内投稿させて頂きますね!
長文おつきあい有難う御座いました。

佐藤伊知郎/2024.08.27 

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