パワハラは、当たり前です
最近、パワハラやいじめに嘆いてる人間をよく認知しますが、規模の大なり小なりパワハラというものはほとんど確実に行われることです。
僕の知っている限りパワハラをしない権力者は見たことがありませんし、パワハラが行われていないんだとしたら、その集団は機能不全なんだと思います。
というのも僕は、小学校3年生ぐらいのある程度頭が回るようになってきた時から先生がタメ口で話してくるのにも関わらず、こちらには敬語を強要してくることが不快だったし、僕からしてみればパワハラでした。
パワハラかどうかは、された側が決めることなので「パワハラ」という概念の内容自体には、目的達成のためだったり、集団を回す上で、至って普通なことや論理的な考えのもとに行われた行為であったとしてもなり得るものなのです。
これらを踏まえて、「これはパワハラなのか?」「これはいじめなのか?」という疑問や戸惑いにより、何らかのアクションを起こすことを躊躇するという行為は無駄だと思います。
これは基準を定義に委ねていることから生じる迷いであり、そもそも「パワハラ」「いじめ」というものは他者からの圧力等によって不快感を覚えるという事象をわかりやすく言葉にしたという便利な概念なのです。
つまり、「パワハラやいじめを受けたくない」という願望の根本にあるのは「不快感を覚えたくない」という願望であるはずなのです。
したがって、不快感を覚えたのだったら、その場所から逃げればいいだけなのだと思います。
「パワハラ」や「いじめ」という言葉が便利であるが故に定義を気にするようになって、手段が目的化している人間が一定数いるように感じます。
皆が不快感を覚えた瞬間、逃げるような価値観になれば、逃げ癖もついて全体の生産性も下がるのかもしれませんが、パワハラやいじめは減る社会になるのではないかと思います。
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