『鬼滅の刃』冨岡義勇と希死念慮・前編

『鬼滅の刃』のキャラ冨岡義勇の心理分析的考察です。

ご注意

私は、心理の専門家ではありません。

暗い、重い、ネガティブな話が苦手な方には、おすすめしません。

希死念慮というテーマのため、
「無意識領域」に影響を与える可能性があります。
ご購読は自己責任でお願い致します。

『鬼滅の刃』という、
著作権のある作品を基にした文ですが、
希死念慮がテーマのため、
不特定多数に公開した結果、「鬼」が読んで悪用する、というリスクを極力避けるために、
中編と後編は、形式的に有料(最低額)といたします。ご理解ください。
興味本位ではなく、本当に必要な方に読んでいただけるように。
義勇さんのように希死念慮の問題を抱えた方々にとって、何か参考になるといいなと思います。

義勇さんというキャラの、あくまでも1つの見方であって、絶対的な解釈ではないし、
また、あくまでもキャラの考察なので、
それを生み出した原作者の心理などの言及まではしていません。
また、当然、ネタバレを含みますので、ご注意ください。
以上、ご了承の上でのご購読をお願い致します。

(前編:
2021年11月3~15日頃に書いたものです)

冨岡義勇と希死念慮。。。

簡単なことです。
、、、と言ってしまうと、
「これを簡単と言ってしまえる簡単な頭が羨ましい」
と本人から突っ込みを食らう、、
だけでなく、水の呼吸の攻撃を全集中で食らいそうなのだけど。。

まず、

既に、物語の始まる前、
蔦子姉さんを殺された時点で、
義勇さんは「サバイバーズギルトから来る希死念慮」を持っていた。

サバイバーズギルトとは、
「大切な人を亡くし自分だけが生き残ってしまったときに感じる罪悪感」。

「普通の希死念慮」と違うのは、

「死にたい」なのか、(普通)
「自分が死ねばよかった」なのか。(サバイバーズギルト由来)

だけど、
ここで話す限りでは、そんなに厳密な違いを気にしなくてもいいのでは?、と思うので、このまま話を続けます。

さて、

自分が死ねばよかった、と、錆兎に打ち明けたものの、
否定されてしまった。

張り飛ばされて、「友達を止める」とまで言われてしまった。

錆兎は錆兎で、
本気で義勇さんを命がけで守りたいと思っていたからこその行動でしょう。
命がけで守ろうと思った人から、
「自分が死ねばいい」とか言われたら腹立ちますよね。

でも、義勇さんは義勇さんで、
心を開いて打ち明けたのに否定されてしまった。

錆兎の側が、
あくまでも義勇さんのことを思っての行動なため、
義勇さん側も、表立って反発するのは難しかった。

その後、
この2人の間に、ドロドロした葛藤があったのかどうか?
原作にはそういう描写は何も描かれていないけど、
もしかすると、それだけで物語1本書けるくらいの愛憎関係(というか義勇さん側の一方的な複雑な思い悩み)があった、としても不思議ではなく、
それはそれで面白いかもと思います。けど、

その後、錆兎も亡くなってしまう。

その時、義勇さんの脳内には、当然、
蔦子姉さんの時と同じ、
「自分が死ねばよかった」という思いが湧くだろうけど、

その度に、
その同じ言葉を言って錆兎に怒られた思い出が蘇る。

でも、
その錆兎も死んでしまった。

錆兎でなく自分が死ねばよかった。。

そう言ったら錆兎に怒られたっけ。。

絶対死ぬなって言われた。。

でも、その錆兎は死んだ。。

やはり、自分が死ねばよかった。。

そしたら錆兎は怒った。。

生きろって言った。。

そう言ったくせに死んだ。。

なら自分が死ねばよかった。。
錆兎は怒るけど。。
生きろと言ったけど。。
そして死んだ。。
自分が死ねばよかった。。

以下、無限ループ。。。

という感じだったのでは?、と容易に想像出来ます。

鬼による惨劇だけでも、
大人でも耐えられないようなショックなのに、その上、

「お前は絶対死ぬんじゃない」と自分に言ってくれた、他でもないその人が逝ってしまった。
その、ダブルバインド(=矛盾する)なメッセージを、13歳の少年が、受け止められないとしても異常ではない。むしろ普通。

錆兎に殴られた思い出は、
同時に、
自分は、この世に生き永らえていてもいい。と錆兎に認めてもらえた体験でもあったため、(自分で認めるだけの自己肯定感はない)

その錆兎が亡くなったことは、

「(鬼殺隊だけでなく)、この世界自体に居場所がない」という思いに、再び苛まれるようになったということで、

「思い出すと、何も出来なくなった」
「悲しくて、涙が止まらなくなった」(第131話)という鬱状態に陥って、

その状態は、

その焦点を、
諸悪の根源である、
鬼への怒りへと一点集中させて、

「許せないという強く純粋な怒り」を、「手足を動かすための揺るぎない原動力」に変えて、
「何も出来ない」状態を抜け切るまで続いたと思われます。

これについては、
近代的なメンタルケアも何もない大正時代、
この状態から自力で這い上がることは相当難しいと思われるので、

この状態を、鬼に付け込まれる危険がないとは言い切れないため、

彼の自我が成長してトラウマと向き合えるようになるまで、
鱗滝さんあたりが、催眠術で、記憶を封印していたのでは?、という可能性も自分は考えていて、
(ねず子に催眠術を施したように)

だとすると、
炭治郎のカウンセリングまで、本人も全く忘れていて健忘状態だったのも、不自然ではないと思います。
(もちろん、普通に記憶喪失、解離性健忘の可能性もアリ)

泣くな。絶望するな。
今やるのはそんなことじゃない。
時を巻いて戻せる術はない。
怒れ。以下云々、
というのは、自身が受けた暗示をそのまま炭治郎に言っていた可能性も。

完全に自力で乗り越えたのだとすると、
それを支えたのは、もはや、「意志や願い」とかいった、生っちょろいものではなく、
さぞかし物凄い、凄まじい鬼への怨念だったのだろうな、と。
ちょっとやそっと怒ったくらいでは、「揺るぎない原動力」にまでならないと思うので。

実際、鬼殺隊の任務で忙殺されて、
鬱状態に浸っていられる余裕すら全然なく、
心の傷を剥き出しで放置したままで、その日その日の任務をこなすことだけで精一杯な中、鬼への怒り、恨み、憎しみを日々つのらせていったというのが実状かも知れないので。。

ともあれ、

炭治郎の天才的共感力のおかげで自分をとり戻した義勇さんですが、
(この時の、炭治郎が無自覚に放った一言が、過去の錆兎の言葉とシンクロするコンステレーション(=布置、巡り合わせ)となっているのが素晴らしい)
とはいえ、
それは、「未熟でごめん」という、「自己否定していた自分の自己否定」であって、
決して、自己「肯定」ではないのが気になるところです。が、

この時点の彼にとって、いきなり自己肯定に至るのは、あまりにもハードルが高すぎること。と、
読者的にも、
否定の否定、二重否定でも何でもいいから、手っ取り早く前を向いてくれた方が安心出来る。ということで、こういう展開となったのでしょう。

(以下、中編(有料)に続きます)

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