初期仏教への疑問①非有愛について
この文は、
2020年4~8月、私が受講した、初期仏教の某動画講座の感想コメントとして書いたものです。
非有愛とは、渇愛の1つ。
渇愛とは、煩悩の根源的なものだそうです。
欲愛(五感の快感を求める欲求)
有愛(生への欲求)
非有愛(死や破壊への欲求)
の3つがあって、
それぞれ、フロイト流に言うと、
快楽原則、エロス、タナトス、に大体当てはまるのかな?
と、自分は思ってます。(未検証)
非有愛について、
お釈迦さまが、非有愛(死や破壊への欲求)を、滅尽すべき3大渇愛の1つに数えている、ということは、
それが、すべての人の中に存在する、ということが前提だと思います。
でも、
その非有愛的なものに、
暗いとか重いとか、ネガティブなどのレッテルを貼って、
自分にはそんなもの存在しないとカン違いするような人もいれば、
(存在しないのではなく、自分からは見えないようにしてるだけ)
なまじ、そういう非有愛を自覚できる感性があるために、この世で生き辛くなっている人もいる。(でも、それも結局、自意識や自己愛だと言うだろうけど)
非有愛を滅尽するにも、
まずは、自覚して気づくことが必要だと思うのだけど、
その気づこうとする段階で、
有愛や欲愛と違って、
非有愛は、無視しようと思えば、無視できるし、(特に平和な世の中では)
その方が、俗世では生きやすいので、
非有愛を、
無視して、その投影を他人に向ける人と、
なまじ気づく力があるために、自分に向けやすい人がいて、
自分に向けやすい人は、
自分自身の非有愛と、
他人から投影された非有愛、
二重の破壊と攻撃欲求のターゲットにもなってしまうので、
非常に辛い状況だし、
(その「辛い」と感じる自意識を滅尽すべきなのだろうけど)
そんなしわ寄せが、
この講座の最初に仰っていたような、社会問題にもなって、あらわれているのでは?
と思います。
(精神疾患、自殺、虐待、ひきこもり、ホームレス、行方不明者、発達障害、ギャンブル依存症疑い。など)
そういう人々は、
何か悪い業を負っているんですかね?
内なる非有愛に親和性があるのは、人として間違っているんですかね?
その辛い状態も結局「自分で選んで」いて「自己責任」なんですかね?
という疑問を、元当時者の1人として思います。(悟ったら、そんなことにはこだわらなくなるのだろうけど)
こういった社会問題を、本気で何とかしたいのなら、
人類全体が、この「非有愛」に向き合えて扱えて滅尽出来るようにするより他ないのでは?
とも思うのですが、
すべて諸法無我、
非有愛や影、闇と向き合うのが難しいことだけは、人類、皆共通で。
それが出来ないから、こういう世の中なわけで。
一方で、世間に流布している仏教や、お釈迦さまの考え方は、
ともすると、上昇志向の強い人、
いわゆる「勝ち組」志向や「二極化」肯定派の人々にとっての都合いい部分が都合よく解釈されやすい面があるのは否定出来ない気がします。
当のお釈迦さま自身は、
当時の権威のバラモン教を否定、破壊した人という一面があると思うのですが、
破壊欲求、つまり、非有愛との向き合い方や扱い方については、実際、何を言ったのか?
そして、
最終解脱が、非有愛をも含めた「自分へのこだわり」を破壊し尽くした先にあるものだ、とすると、
傍目には自滅的に見える行動も、それはそれで、何十回か何百回か先の転生で解脱する際に活きる、本人にとって意味のある経験、という見方も出来るのでは?
とも思えるのですが、如何でしょうか?
この手の社会問題の当時者が、各自、無理解な他人や世間から、自分の心を守って、自助できる選択肢を持つために、
お釈迦さまが本当に言った言葉で、何かヒントになることがあるなら、ぜひ伺いたいと思いました。
以上、
長文、お読みいただいて、ありがとうございます。