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▽R05-12-08 面長の多忙

▽馬鹿ほど忙しくて会社に泊まったりしていた。眠いぜ。

▽大した仕事をしているわけではなく本当にただ作業が立て込んでいるだけなのだが、職場にあるソファで寝たりしていると「今、社会の歯車になっている……」というイベント感があり、謎の楽しさがある。

 いや、仕事を楽しいとかなんとか言うと気の狂ったワーカホリックみたいで嫌だけれど、タスクの濁流に押し流されて汚泥のように働かされているとき特有のトリップ感を全く無いものとして語るのもそれはそれで不誠実だと思うんだよな。
 バランスの悪い職場なので馬鹿ほど忙しい時期と馬鹿ほど暇な時期をどちらも経験したが、どっちのほうがより不幸かといわれると微妙なところだ。もちろん余暇が目減りする点では忙しい方が確実に害悪なのだが、やることが無くてひたすら定時を待つ時間の退屈というのも侮れない。その点忙しい時期は気がついたら終電間際になったりしているので、体感の労働時間はかなり圧縮されているのだ。


▽最近読んだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』にも、「忙しさ」に関する興味深い記載があった。
 全体を通して「暇」や「退屈」について哲学的に論じている大変面白い本だったが、特に印象に残ったのは「退屈」と近現代の消費社会との関連にまつわる記述だ。ボードリヤールの近代論を引用しつつ論じる著者曰く、「現在では労働までもが消費の対象になっている」らしい。

“消費を記号や観念の消費として考えていくと、実は、現代の様々な領域が消費の論理で動いていることが分かる。人間のあらゆる活動が消費の論理で覆い尽くされつつある。
 なかでもボードリヤールが注目するのは労働である。労働は今や、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。「一日に十五時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」。”

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』143頁

▽「忙しさという価値を消費する」って言い回し、忙しいアピールをする人間に感じるモヤモヤへの説明としてすごく腑に落ちるな。
 忙しい人間は、自らを指して「忙しい」と言えるという債権を保有している。その債権は他人に「最近忙しくてさぁ」と言いふらすことでいつでも利益回収(消費)でき、「大変だね」とでも返してもらえたら大得も大得、利子が3倍で返ってきたようなものだ。彼らは如何に自分が不幸な境遇に置かれているかを殊更に語りたがるが、何のことはない。実態は真逆なのである。

 さっきも言ったとおり、渦中にいる間はそれ特有の高揚感が(頼んでもないのに)精神を支えてくれるものだ。本当は「忙しさ」で精神的にも金銭的にも満足を得ているのに、忙しいアピールをする人たちはそれを隠している。ただひたすら過酷で悲運な出来事であるかのように「忙しさ」を顕示すれば、同情やねぎらいという形で更なる満足が得られるからである。まるで錬金術、よりストレートに言えば詐欺だ。全くもってフェアじゃない。


▽とはいえ、忙しいことを至上の幸福のように語る人間はそれ以上に閉口モノだから難しいな。労働は本質的に害悪である、という根幹的な世界観を崩すようなことがあってはならないけれど、かと言ってその害悪を「忙しさ」という二次的な性質に還元するのもよくない気がする。もちろん過労死のような問題もあるので、多忙そのものが悪だと言えるときもあるとは思うんだけど。
 労働について言及するときのスタンスは、とりわけ現代において実に悩ましい。







▽終電には黄金のうんこが落ちていたりして面白い。


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