震災9年~活動振り返りと これからもできること~
東日本大震災から丸9年を向かえた。同時に、10年目が始まった2020年3月11日。当時大学1年生だった私は、「気づけば9年が経つのか」とつくづく実感する。自分がこの9年間で関わってきた支援と、実際に行動して至らなかった点や課題、そして私たちが、これからもできる支援を振り返りながらまとめていきたい。
発生初期(2011年~2014年)
9年前の時から、東北被災地に対して、自分には何ができるのだろうと模索しながら支援活動を行った。
特に2011年~2014年の間は、現地に行ってボランティア活動として、復興支援に携わった。この3年間では
岩手県→宮古・大槌・釜石・大船渡・陸前高田・遠野
宮城県→気仙沼・南三陸・石巻・東松島・仙台・塩釜・七ヶ浜
福島県→相馬・福島・郡山
これらの地域を実際に訪れて、がれきの撤去作業・支援物資の送付・小学生を対象とした学習支援・イベント企画など、多岐にわたって活動をしてきた。
この頃は各市町村でボランティアの募集が多かったため、ボランティア経験皆無の私でもできる支援は多かった。同時に、他の参加者も同じ志を持っている方々がほとんどだったので、共通点も多く話も噛み合い、心地よかったのがいまでも覚えている。このボランティア活動を通して、人を助けることの達成感と困っている方々の声に耳を傾ける大切さを学ぶことができたと実感。
発生から3年以降(2014年~2016年)
これからもずっと支援を続けたい気持ちはあった。でも現実は、社会人として就職しなければならない年齢になり、仕方なく・・・と言ったら大げさだが、就職に向けての準備を開始した。
先に述べたように、まだまだ復興支援に携わりたい思いが強く、どうやったら仕事を通じて関わることができるか模索した。東京で就職しようと行動していたが、年齢的にもまだ若く様々なことにチャレンジしたい欲があったため、方向転換し、福島県で就職することに決めた。
福島県では、協同組合に入職し、原発事故で避難された方々への生活支援(食料品・衣料品の配布、入居者の見守り活動)を中心としたお仕事を2015年から2年間務めた。
これまでのボランティアとは違い、投げやりでやったり適当にやることは許されないため、責任が重くのしかかったのは鮮明に覚えている。
・高齢の方々は、生活で何の不満を持っているのか
・悩みを聞き、解決策を提示できるのか
・福島弁を聞き取ることはできるのか
などなど、お腹の痛みを堪えながら、被災者の心の癒しになれるよう自分なりに突っ走った。
自分で言うのもおこがましいが、次第に仮設住宅で暮らす方々と距離を縮めることができ、食事をご馳走してもらったり、訪れた際にはジュースやお菓子などの差し入れをいただくようになった。
この時期の復興支援では、ボランティア活動では経験することのできない分野に携わることができ、自分の成長も感じたと同時に、報道では語られない被災者の本音を知ることでできた。ある意味、人間の隠れた傷を負った人が福島を含め、宮城・岩手にたくさんいる現状ということを知った期間でもあった。
現在まで(2017年~2020年)
2017年以降は、活動拠点を広島県に移したため、物理的理由もあり現地での被災地支援は、なかなか難しかった。しかし、防災関連のお仕事している以上、東北の被災地をまだまだ知る必要があったため、まとまった時間を取って現地を訪れることは継続した。
2019年3月に訪れた、福島県浪江町の様子を撮ったもの。浪江町の一部地域が2017年3月に帰還困難区域から解除され、その後町はどう変わったか、どんな生活をしているか調べるために訪れた。
新たに食堂や喫茶店がオープンしていたりと、浪江のために尽力されている方がいた。喫茶店を経営している方にお話を聞いてみると「浪江はまだまだ人もほとんど戻っていなくて道のりは長い。だけど少しでも浪江の復興に協力したいし、全国の方にも浪江の良さが伝わってほしい」と話していたのが印象的だった。
正直なところ、私も浪江を訪れる前までは、人がまったくいない町を想像していた。けど実際に訪れると、人は少ないものの、歩いている方いるし、お店もちらほら営業していて、復興に向けて前に進もうという意思が現れていた。同時に、報道ではなかなか伝わってこない真実を伝えなければならないし、それが私ができる復興支援だと実感した。
そのためには、もちろん課題といった負の部分を受け止めなければならないが、一方に偏ることがないように、明と暗両方の現実を知り、正しく伝えていく必要があると思った。
今後(2020年以降)
東日本大震災と原発事故からとうとう10年目に突入。特に福島県で原発事故の影響を受けた地域では、人が戻ってこないといった課題も山積しており、正直震災前の光景を取り戻すのは無理かもしれない。
けどそこで諦めていたら、ますます過疎化に拍車をかける一方なので、定住にこだわらず、皆それぞれ異なる土地に住んでいても、町との関係性を構築できる支援策など、県外からの意見もかき集めて新たな町として再生していくのが妥当かもしれない。
私として今後できることは、引き続き積極的に現地を訪れ、現地の風景や暮らしを取材し、言葉なり写真等を使って多くの方に伝えていくことかと。
今後も、お世話になった現地の方々に感謝しながら、自分らしく寄り添うことのできる支援を継続していこうと思う。
10年目以降も、小さいできることを着実に積み重ねることが、震災復興の大事な姿勢かもしれない。
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