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「オタク」だからこそ-少数派に寄り添う存在でいたい

HSP勢で内向型人間のオタクがお送りする「オタ語り」。

今回は、「かつてオタクはマイノリティであった」件について。
例によって6,000文字overの文字数になっております故、サクッと読みたい方はご注意ください。


オタクバッシング

今でこそ、「オタク」は世間から受容されているとも言えますが、かつては「オタク」が社会から偏見の目で見られ、犯罪者集団のように見られた時代がありました。

1980年代後半、社会を騒がせた事件がきっかけで、「オタクバッシング」といわれるような現象がおき、「オタク」そのものが危険思想を持っているかのような言説が社会で支持されるようになった残念な出来事がありました。

マスメディアの報道の仕方に大きな問題もありますが、それを支持した民衆がいたことも事実です。

当時、アニメやゲーム、漫画といった存在は、現在ほど大きな影響力があったわけではなく、それを表立って趣味と公言する者はあまり多くなかったため、まさに「マイノリティ」というに相応しい存在として世間からは認識されていたわけです。

一人の「オタク」が起こした問題が、まるで全体が悪いかのように攻撃する例というのは、例えば外国人差別の問題にも見て取ることができます。
社会の中で、犯罪を犯した外国人の比率というのは非常に少数であるにもかかわらず、「治安が悪いのは外国人のせい」という根拠のない言説がインターネット上ではあちこちで見受けられます。

わかりやすさ」を求める現代、そうした兆候はあちらこちらで見られます。

社会的に弱い立場の人たち、例えば難民の人々や、生活保護を受けている人たち、あるいは性的マイノリティの方たちのような、「叩きやすい」人たちを見つけて、それを攻撃対象にするという風潮はますます強まっています。

第二次世界大戦でのナチスが行ったホロコーストも、こうしたスケープゴート的な手法の一つといえます。

あるいはカルト問題によって、宗教全体がまるで悪のようなレッテルが貼られていますが、伝統的な宗教とカルトを一緒くたにして論じることに無理がありますし、正しい理解とは言えません。

人々は「わかりやすさ」を求めるあまり、「仮想敵」を見つけては、「それが無くなれば世界は良くなる」という短絡的な考えがますます世の中を覆っていることに対する危惧があります。

「トップが辞めればすべて良くなる?」

スポーツの世界でも、成績が悪くなるとすぐに「監督をクビにすべき」という論調が高まりますが、トップが変わればすべて正しい方向に行く、という考え方自体が、「スケープゴート」的であるとも思います。

また、企業や政治家の不祥事でも、「トップが辞めるべき」という論調を良く見ますが、それですべてが解決するわけではない。

「攻撃対象」を見つけて、それを引きずり下ろすことで快哉を叫ぶ民衆のためのスケープゴート的手法が、社会の様々なところでますますエスカレートしている、そんな状況に違和感がする今日この頃。

今の若いオタク層の人たちは、かつてのオタクバッシングを知らないのかもしれませんが、当時の社会を知っている自分としては、「オタク」こそ、こうした現代の風潮に対して、しっかりと異議を申し立てる姿勢が必要だと思うのです。

「オタク」はかつてマイノリティで、自分が「オタク」と表明することすらも憚られた時代がありました。
「好きなものは好き」と堂々と言いづらい中、息をひそめるように活動していたオタクがいたことを忘れてほしくありません。

多数派が正しいわけではない

「オタク」が社会の中で受容されるようになった理由として大きいのは、やはり「経済効果」という観点で論じられるようになったことではないかと思います。

アニメや漫画、ゲームといったコンテンツが大ヒットし、社会現象化するとともに、メディアはそれらの影響を無視できなくなります。

近年では映画の興行収入ランキングでも、アニメ作品が上位を独占することが当たり前になりました。

作品がメディアに登場するにつれ、「オタク」がそれらの趣味をオープンにする機会に恵まれ、社会に受容されるようになったこと自体は、歓迎されることかもしれません。

しかし、「マス」になる努力をしなければ、受け入れられない、という社会自体にも、私は問題があるように思えるのです。

「マイノリティ」が、「マイノリティのまま」でも認められる、そのような社会こそが大事だと思うのです。

「弱いもの」が「強くなる努力をしなければ」存在価値がないのだとすれば、肉食動物に常に食べられる草食動物には価値がない、ということになります。

人間が「人間たる所以」なのは、"社会的動物"だからです。
弱い立場にあったからこそ、群れの中でお互い助け合って生きてきたからこそ、高い知能を持つことができ、生き残ることができたのです。

それを「きれいごと」という人がいますが、では、その人は生まれてから誰の手も借りずに生きてこられたというのでしょうか。
誰しも赤ん坊の時は、親の手を煩わせ、夜中に泣いたりぐずったりしていたわけです。

「迷惑をかけない」という意識が強すぎる日本人ですが、私にしてみれば「誰にも迷惑をかけずに生きろ」という方がよっぽど「きれいごと」だと思います。
迷惑をかけたことがない人なんて、一人もいないのです。

「誰も取りこぼさない」はnoteの理念

note公式における紹介の記事で、noteというサービスの理念を窺い知ることができますが、「noteの特徴」の記事にて、このような記述を引用させていただきます。

この宣言はちょうど今から10年前の2014年にされています。

とても一般的でプレーンなサービス名は、だれもがどんなことでも書けるように付けられました。それぞれの価値観や生活スタイルの違いを楽しみ、隣のコミュニティを揶揄することなく、共存していける空間づくりをしています。

「noteの特徴」より引用

この「共存していける空間づくり」というnoteの記述は「すべてのものを歓迎する」という宣言に思えます。

すべての記事に価値があり、尊い。
それは「マイノリティ」にも存在価値がある、という理念と通じるものがあるはずです。

世の中では、「経済的価値をもたらすものに意味がある」といわんばかりの現象があちこちで見られ、「お金を払っている方が偉い」とばかりに消費者による"カスハラ"が社会的問題になり、「子供を持たないLGBTは生産性がない」と発言した政治家がいました。

また、先日「旧優生保護法」に対する違憲判決が出ましたが、残念ながら一部のネット上では、障がいを持った人々に対する差別が続いている状況です。

しかし、noteの理念は「多様性を尊重することが、世界を豊かにする」。
その一言に尽きると思っています。

いち「表現者」として-オタクだからこそ

コロナ禍で「不要不急」としてエンタメが袋叩きにされたことも記憶に新しい現代。
思えば太平洋戦争中、様々な表現が当局によって弾圧され、規制されたことを鑑みると、今の日本も昔とそれほど変わっていないようにも思えます。

「松文館事件」や「非実在青少年」など、サブカルチャー作品の表現の在り方について考えさせられる出来事は現在も起こり得る可能性をはらんでいます。

「マイノリティ」から「多数派」になったオタクが、市民権を得るようになったのは、まるで自分たちが努力して勝ち取ったものだと思うなかれ。

表現に関わるものとして、「オタク」は常に少数派に寄り添い、社会における虐げられた立場の人たちに目を配ることに、存在意義があると私は思っています。

かつて問題になった「都条例」の改正に際して、アニメ好きで知られる歌手の《西川貴教》さんは、コミックの表現規制に関して、堂々と自分の意見を発しておられます。

東京都の漫画の規制を目的とした都の条例改正とそれに関する石原慎太郎東京都知事の姿勢を問題視しており、また同知事の同性愛差別発言について「勘違いされたくないのは、今回の条例を否定だけしているのではありません。条例に関して都民に詳しく説明もせず、内容の審議もそこそこにアニメやコミックは低俗、同性愛者や性同一性障害者には時に差別発言をするような知事が性急に条例を可決させようとしていることに問題があると思っているのです」と批判した。

Wikipedia - 『西川貴教』 "人物"の項目より引用

特に日本では、スポーツ選手や芸能人が政治的な発言をすることを良しとしない風潮がありますが、『政治の話は我々国民の生活の話』と、タレントの《武井壮》さんはそれについて異議を唱えました。

政治に「誰もが関心を持つべき」という発言に私も共感しましたし、オタクだからこそ、「表現」というものに向き合い、他者に対しても想像力をもって接してほしい、と思います。

政府や「お上」から、「好ましくない表現」と指定され、有害図書扱いされる社会。
誰かや権威に判断基準をゆだねる「お任せ民主主義」でない、真の市民社会を築いていくために、「オタク」が声を上げ続けていくことが、世界をより自由にしていくと言っても過言ではないと私は思っています。

また、メジャーな作品にばかり目を向けるのではなく、だれも見向きもしないような作品や、評価されず埋もれているような作品を見出してこそ、オタクの真価が問われると言ってもいいと思います。

クリエイターには個人事業主が多い

漫画家のアシスタントや、アニメの原画を担当するアニメーターといった人たちの多くは、フリーランスや個人事業主として活動している方が大半です。

日本社会においては、「社会人」とは、「会社員」のことを指すとでも言わんばかりに、こうしたフリーランスや個人事業主の方々の立場というのは海外と比較しても弱いです。

しかし、大ヒットした漫画やアニメを支えているのは、こうしたクリエイターの方々の努力があってこそ。
しかも、こうした方々の労働環境というのは非常に厳しく、アニメ業界では月の労働時間が直近の調査でも225時間以上という結果が出ています。

コロナ禍で舞台や芸能関連のイベントが中止になった際は、俳優に支援を求めた日俳連の《西田敏行》さんがバッシングされたこともありました。

世間の論調はこうでした。
「俳優は普段ギャラをたくさんもらっているのだから、苦境になったら支援を求めるのは虫が良すぎる」。

しかし、声優や俳優をしている方で、普段から食べていけるのはほんの一握りにすぎません。
そうした俳優業の方は、「派手な生活をしている」という「一部のイメージ」をまるで「全体」に当てはめて語るのは正しい認識とは言えません。

また、クリエイターは「好きなことを仕事にしているのだから我慢すべきだ」という日本社会のおかしさがまかり通る根本的な原因として、日本人の仕事観というものも影響があると思います。
仕事とは、やりたくないことをやらされること」という妙な固定観念が強いのではないでしょうか。

海外では、日本に比べると、個人事業主やフリーランスの割合はかなり多く、むしろ日本が突出して「会社員」が多いと言えます。

日本の教育方針として、「組織の中で従順に動くことのできる人材」が重視される傾向があり、「皆と違うことをする」と叩かれるという風潮が大いに影響されていることを考えると、海外に比べて「弱い立場の人がバッシングされやすい」環境にあると言えます。

しかし、考えてみていただきたい。
あなたが着ている服や、あなたが今日外食で食べた料理は、「弱い立場の人たちが作ったもの」かもしれません。
あなたが今日見たアニメや映画は、「名もなきクリエイター」の力によって作られたもののはず。

普段私たちは、そうした弱い立場の人たちが支えてきたものからの恩恵を享受しているということにもっと気づいてほしいし、物事を一部の表面的な事実だけで見ないでほしい、と心から願います。

昨今では残念ながら「難民」に対する排除意識も高まっていますが、彼らが「なぜ難民になったのか」という背景や、母国の政治情勢などについて語られれることはほとんどありません。
「表現」に関わる者として、「想像力」をもって生きることを忘れないで生きていきたいと思います。

「らしさ」のオンパレード

日本社会というのは、「こうあるべき」「〇〇らしさ」というものを求めがちなところがあります。

「わきまえる女性」という発言が政治問題化したこともありますが、「女性は〇〇であるべき」「高校球児らしくあるべき」「日本人らしからぬ身体能力」などなど、他者の在り方を規定するそうした考え方によって、社会の中でどうにも息苦しさのようなものが感じられます。

私自身、「女子スポーツ作品」のオタクをしていますが、「女性がスポーツをするということ」に対しても、日本社会にある厳然とした差別や偏見のようなものを感じ取る機会が多いです。

欧州では女子サッカーに5,6万人の観衆を集めることはザラですが、国内のWEリーグでの観衆は残念ながらその10分の1以下です。
これは、選手や協会だけの問題ではなく、やはり国民の女子スポーツに対する意識にも原因があると私は思っています。

「オタク」というジャンルにおいても、「オタク」という世間が求めるイメージのみならず、「オタク側」からも、「グッズをたくさん集めるのが真のオタク」など、「あるべき姿」のような「らしさ」が語られることがあります。

しかし、「オタク」とは、「アニメや漫画が好き」というだけで、私は十分ではないかと思っています。
今や、そうした「サブカルチャー」はすっかりメジャーな存在にはなりましたが、過去に不当な扱いを受けていた「オタク」という精神を忘れないためにも。
例え世間が「オタク」という呼称を面白がって呼んでいたとしても。

私は「オタク」であり続けたいと思うのでした。

「隠れオタク」

江戸時代、幕府の禁教政策で、日本のキリシタンたちは「隠れキリシタン」として息をひそめるように生きてきましたが。

明治以降、禁教が解かれ、キリシタンたちは大手を振って街を歩くことができるようになりました。

かつてのオタクも、世間から身分がバレないように、こっそりと生息していた人たちが多かったわけでして。
「オタク」がメジャーになった現代においても、「隠れオタク」として周囲の家族や友人に悟られまいと活動している方もいらっしゃるかもしれません。

「自分の好きなもの」を、堂々と主張できないというのはやはり、辛いことです。
オタク界隈でも、推し作品を他者に広めることを「布教」と呼びますが、言い得て妙というか、まさにキリシタンのような「禁教時代の試練」を乗り越えてきたからこその連帯感のようなものがあります。

「隠れキリシタン」は、迫害を受けながらも300年信仰を守り続けました。
現代では、「オタク」を公言することに抵抗がある人も少なくなりましたが、それでも、周囲の事情によって、自分のオタク趣味を隠しながら生活している人もいるでしょう。

"オタクウマ娘"【アグネスデジタル】の魂の叫び

もちろん、すべてをオープンにする必要はありませんが、「自分の意思に反して」、オタク趣味を周囲に隠さないといけない状況というのは、やはり精神衛生上も良くありません。

推し活」という言葉も市民権を得てきた現代において、健康で文化的な「オタク」生活を送るためにも、"隠れなくてもいい"世の中であってほしいと心から願います。

そして、世間から見放されている人々や、困っている方々に対して。
オタクだからこそ」寄り添い、手を差し伸べられる存在でいたいと、私は思うのです。

デジたんがお礼を言いたいようです

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