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ドライブ・マイ・カーとまえがきの記憶

日曜日、やっと『ドライブ・マイ・カー』を観てきました。

Bunkamuraル・シネマで、日曜日の最終上映枠。といっても、18:10上映開始。一般的にはそんなに遅くない回に思えるのですが……この映画、長いのです。

予告編上映も含めると、18:10開始・21:15終了の3時間。長い。村上春樹の短編を原作にしく本作品ですが、短編が元とは思えない長さです。上映中に駆けるように出ていく人が何人かいましたが、きっと、ギリギリまでトイレを我慢していたんだろうな……。

でも、さらに驚いたのが、観ている感覚としてその長さをまったく感じさせない作品だということ。少なくとも私は「3時間もあった」ということを忘れてしまいました。

あっという間だった、というのとも少し違います。落ち着いて観ながら、作品の中の、あるいは人間としての時間の経過を感じられる。演出は全体的に淡々としていて、静かで、沈黙や毎日の繰り返しのようなシーンが多い。だけど、長い、あるいは冗長だとは、まったく感じないのです。どの沈黙も、どの繰り返しも、作品にあるべき時間・ピースで、必要十分なのだと感じました。

映画に限らず文章でもそうですが、冗長なのか、あるべき長さなのかは、時間や字数で測れるものではないんですね。

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さて、映画の感想も——三浦透子さんがすばらしかったとか、登場人物の言葉がチェーホフのテキストに聞こえ、チェーホフのテキストが登場人物の言葉に聞こえてくる不思議とか——あるのですが、映画評はあまり得意ではなく……。ネタバレしちゃいそうですし、何より、映画で重要な要素として出てくるチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』をまだ読んだことがないので、映画についてはここまで。

今日は、原作を手に取った話をしたいのです。

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最初に『ドライブ・マイ・カー』という映画と、村上春樹の小説が原作であることを知ったときに思ったのは、「え、そんな小説、村上春樹にあったけ?」でした。

高校から大学1年くらいまで、一時期はよく村上春樹を読んでいました。最初に読んだのは『海辺のカフカ』。なんだか分からなかった。次に読んだのは『ノルウェイの森』。これもなんだか分からなかった。少し毛色が違うなと感じたのが、『1Q84』と、短編集の『東京奇譚集』。でもその2つも、おもしろいとは思ったけれど、やっぱりなんだか分からなかった。

多分、当時の私は恋愛感情も性欲も、作品に登場する人々の傷も、虚無も、どうしてああも脆く乾いて急に消えてしまうのかも、理解できなかったのでしょうね。

分からなかった私は幼かったなと思う反面、健全だったのだろうとも思うし、分からないままでよかったかなとも思う。けれど、20代も後半になって少しは分かるような気がするようになり、それはそれで成熟したというか、自分の幅が広がったのかなぁ、なんて思っています。

とにかく、分からないなりに、まあまあ読んでいたのです。むしろ、分からないから読んでいたのかもしれません。

まだ読んでいない作品も多数ありますが、「村上春樹」の棚はよく書店で見ていたので、大抵の書名は目にしたことがあるはず。なのに『ドライブ・マイ・カー』は、まったく思い当たりませんでした。アカデミー賞に上がる作品の下書きになるようなものなのに。ちょっと、悔しかった。

で、検索してみると『ドライブ・マイ・カー』は書名ではなく、短編集『女のいない男たち』に収録されている一編でした。単行本が出たのが2014年、文庫になったのが2016年。私がよく村上春樹作品を読んでいた時期からは少し外れていたので、記憶にないのも合点がいきました。

そして、すごく原作への興味が湧いてきました。

映画の、淡々としていて多くは語らず、むしろ黙っていることで語るようなところ。冷めていて周囲にも自分にも関心がないようでいて、その下に機微な感情や傷が見え隠れするところ。その空気感に「村上春樹作品の匂いらしいな」と感じた一方で、あの沈黙の時間を、その沈黙の中でのやり取りを、文章ではどう表現しているのかを知りたくなったのです。

それに、どうしたら短編が3時間もの長さでありながらそこに無駄を感じない作品になるのか、どこは原作に沿いつつ、どこを膨らませているのかにも、興味がありました。

映画を見終わって渋谷の街でラーメンをすすりながら(21:00を過ぎてもラーメン店が開いている世の中になって良かった)、すぐにスマホからAmazonで『女のいない男たち』を注文しました。

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翌日の月曜夕方、ポストを開くと、少しふっくらしたAmazonの段ボール袋が入っていました。包みを抱えて部屋まで階段を登りながら、ビリビリと開封して中身を取り出します。

帯には、書名よりも大きな書体で「アカデミー賞 受賞!」の文字。背表紙にも「映画化話題作」の赤い印字がされています。「はっはっはっ、売り込むね〜。まあ私もまさにその情報にくすぐられた一人なんだけど」なんて思いながら、ぱらりとページを捲りました。

そして、「えっ?」と驚きました。驚いたというより、固まったというほうが適しているかもしれません。

そこには、「まえがき」がありました。

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村上春樹の作品に、「まえがき」があるって、珍しいなぁ。
——と、以前も私どこかで思ったな……。


まえがきの出だし、

 長編小説にせよ短編小説集にせよ、自分の小説にまえがきやあとがきをつけるのがあまり好きではなく(偉そうになるか、言い訳がましくなるか、そのどちらかの可能性が大きい)、そういうものを出来るだけ書かないように心がけてきたのだが、この『女のいない男たち』という短編小説集に関しては、成立の過程に関していくらか説明を加えておいた方がいいような気がするので、あるいは余計なことかもしれないが、いくつかの事実を「業務報告的」に記させていただきたいと思う。

『女のいない男たち』まえがき冒頭より

いや、一文が長いな。だいたい、言い訳がましくなるから書かないようにしてきたって言っているのに、この一文が言い訳がましいな。だけどこんなに長い一文なのに、読んでいてスルリと入ってくるから不思議。
——と、以前も私どこかで思ったな……。


その後に続く、

 僕がこの前に出した短編小説集は『東京奇譚集』で、それが二〇〇五年のことだから、九年ぶりの短編集刊行ということになる。

『女のいない男たち』まえがきより

お、『東京奇譚集』は読んだことあるし、おもしろかったよ!
——と、以前も私どこかで思ったな……。


さらに「僕は短編小説をだいたいいつも一気にまとめ書きしてしまう。」から始まる彼の執筆スタイルの話も、こんなペースで小説を書ける人がいるのかと驚くし、その書き手に合ったペースがあるのかというのもまたすごく興味深い。
——と、以前も私どこかで思ったな……。

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これは、もう「読んでいる」としか思えないのです。デジャブにしては、鮮明すぎる。

だけど、自宅の本をすべて見ても『女のいない男たち』はありません。春に本を整理して少し手放したけれど、その中にもなかったはず。2014年は大学の図書館で小説は借りていないし、じゃあ、どこで読んだのだろう……。

しかも、前書きはこんなに鮮明に記憶と重なるのに、本編はほとんどが新鮮なのです。唯一『イエスタデイ』だけ、ビートルズの『イエスタデイ』に関西弁の歌詞をつけた男がいて、だけどその人は関西出身ではないという前半部分は記憶に残っていたけれど、そのほかは全部新鮮なのです。

どうしてだろう……?とページをペラペラ捲りながら考えて、ふとある可能性にたどり着きました。つまり、人待ちをしているときなんかに、本屋でペラペラと読んでいたのではないだろうか、と。

そういうときは、まえがきからパラパラと読むか、気になる一編の頭だけを読むか、あとがきを読むかのどれかです。おそらく『女のいない男たち』を書店で手にした私は、「まえがき」をほうほうと読み、タイトルで「ビートルズかな?」と思った『イエスタデイ』をパラパラと見て、関西人じゃない関西弁に自分を重ねたのでしょう。

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そうやって考えると、書き出しって——特に書籍における最初の数ページって、ものすごく大切なんだなぁと、改めて沁みるように実感します。

そして、関心を惹く、インパクトのある、あるいはスッと世界に入り込めるものを頭に持ってきながら、最後までダレさせないって、さらに難しいことだなぁ、とも思いました。

はぁ……それを実感すればするほど、眉間にシワがよってしまいます。いま、書籍の編集でまさに構成を調整している最中だから。最初が大切なのも、最後までダレさせないのが難しいのも、どのコンテンツにも言えること。だけど、本となると長いし、「はじめに」とか「まえがき」だけパラパラとみるという人はwebや雑誌よりも多いだろうし。「大切なんだなぁ」「難しいことだなぁ」が、もう他人事ではないのです。

そんなことを考えながらものを見ると、これまでなんて漫然と見てきたんだろうと思うことが、いっぱいあります。家にある本だけでも、一度読んだことがあるものであっても、学べることがたくさんあります。

しばらくは何を見ても読んでも、そういう「作り手」の視点になってしまいそう。それは少し寂しくしんどくもあるけれど、これまでとは違う楽しみ方でもあって、好奇心のほうがくすぐられている現在です。

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ちなみに、原作を読んだ上での映画への印象は「よくこれだけ大切なところをブラさずに、だけど舞台を変えたり人や設定を増やしたり、話を膨らませたりしたなぁ。それでいてその加えたものがどれひとつ贅肉に感じないというのは、なんでだろうなぁ」と、もっと興味深くなりました。

気になるところも多数あります。なぜロケ地を広島にしたのだろう。なぜチェーホフの舞台の演出を多言語にしたのだろう。なぜ『ワーニャ伯父さん』のあの台詞を、あのシーンを選んだのだろう……。

変えたところや加えたところの、その理由やつながりを考察すれば、監督・脚本の濱口竜介さんがこの小説のどこに惹かれ、どこを大切にしたのかが見えてくるような気がします。その考察には、まだまだ情報が足りない。まずは『ワーニャ伯父さん』を読まなきゃだし、濱口監督の他の作品についても知らないといけないかもしれない。いやあ、とにかくちゃんとした考察をする映画評って、一大仕事だなぁといまさらながら思います。

なかなかそこまでやりきれないものだけど、でもそういう映画の見方ってめちゃくちゃおもしろいなとも、やっと思えました。そう思えたってことは、ひとつの“見る目”が養われたと思っても、いいかな。

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さんざん「冗長に感じない」とか「書き出しって大切」とか書いておきながら、この投稿が冗長で軸がブレブレの“だべりnote”になってしまいました。すみませぬ。

ただ、この『喋喋喃喃』マガジンの投稿は、「つぶやき以上、日記未満。」で、内容にこだわらずできる限り毎日投稿することが目的だから。と、言い訳。許してちょ。

そして、今日も最後まで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

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