じいちゃんの話

森山直太朗の「さくら 独唱」がヒットしている頃、祖父は亡くなった。

病院で亡くなった知らせを聞いた時ちょうどテレビで流れていたのでよく覚えている。

普段はおっとりした優しい人だったが、ニコチンが切れるとよくテーブルや襖を蹴飛ばし悪態をついては祖母を困らせていた。

タバコ一箱渡してしまうとあっという間になくなってしまうので、祖母が心配して部屋のどこかに隠すのだが、そこは暴れたもん勝ち。
物にはあたるものの家族には手は出さない…は徹底しているようだった。

私が小さい頃は運送の仕事で家計を支えている時期もあったが、ほぼ家に居るイメージが強かった。

トラックに祖父母と3人で乗った時、祖父の居眠り運転で死にかけたこともある。とりあえず死なんくてよかった。

阪神大震災の頃、知人の手伝いで神戸に行くことになり、父の運転で現地まで皆で祖父を送り出した。

案の定すぐ嫌になったらしく、数日後には神戸から堺の家まで徒歩で帰って来た。
そういうガッツだけはある人である。

パチンコも好き。

現在も同じ場所にある湊駅最寄りのパチンコ屋によく入り浸っていた。
パチンコを打ちに行くために、テレビの上が定位置の孫の貯金箱に手を出す駄目なじいちゃんだった。

そんなだらしない祖父の代わりに家を支えるのは祖母。七道駅の方へ週何度か清掃の仕事へ出掛けた。

祖母が居ない時は、学校から帰ると祖父と2人きり。
特に話すこともないので、時々給食で半分残したコッペパンをあげた。

パンをあげるのは帰り道にいる外飼いの犬か、祖父。
つけ合わせのジャムと一緒に、わりと頻繁に渡していたから、のちに祖父が糖尿病になったのは自分のせいもあったかもしれない。

数年後、朝のごみ捨てを頼まれそのまま半年間行方不明になったこともあった。

若干痴ほう症の気があった祖父に頼む祖母もどうかしてるとは思うが、ごみを捨てたあと部屋へ戻る道がわからなくなり、さまよい歩いた末、西成で倒れているところを保護された。

そんなどうしようもない記憶ばかりだが、祖父が元気な頃、自転車の後ろに乗って、浜寺にあるROUND1に2人で卓球をしに行ったのは楽しい思い出として残っている。

祖母に苦労ばかりかける人だったが、「さくら 独唱」を聴く度、面長で浅黒い優しい顔が目に浮かんでくる。

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