骨盤骨折。Part.45
相棒との別れは突然に…。
ベテランの看護師さんが病室に入って来た。
車椅子を指差して、僕を見る。
「これさぁ、新しく入院した患者さんへ廻してもいいかなぁ。」
あ、はい。すみません。
本心とは違う返事が、反射的に出ていた。
あの、できれば、もう少し置いといていただきたいんです。車椅子。
日によって痛さが違って、歩行器ではトイレまで歩けないこともあるので。
言えなかった。
『入院患者に貸し出す歩行補助器材は1人1台。予備はそんなにないの。歩行器で歩けるなら、車椅子は不要でしょ?』
いつか言われる。覚悟してたから。
「じゃあ、持ってくね。」
あっけなく持ち出されていく車椅子。
ずっと一緒だったのに。
今までありがとう。
もっとゆっくり、お別れしたかったな。
大学病院からここへ転院した頃は、車椅子に乗ることもできなかった。
仙骨と骨盤が縦に割れた骨折の痛みと、伸ばされて傷ついた神経の痛み。
フットレストを上げて左膝を曲げずに座ると、体重が偏って右尻の筋肉まで痛くなる。
一つしかない脳が違う種類の痛みを同時に感じて混乱する。
「どこが痛いの? どのように痛むの? どのくらい痛いの?」
言葉がみつからない。上手く答えられない。
自分の語彙力に絶望して、悲しくなる。
この痛み、感じてるのは自分だけ。
上手く言葉にできたとしても、他人には伝わらないのかも知れないな。
車椅子って、腕が疲れて大変だろうな。
怪我するまでは、僕だってそんな認識しかなかった。
歩けないのに動くって、痛いんだな。
知らなかったよ。
ひとりポツンと残された歩行器と目が合う。
もう、これで歩かなきゃ何処へも行けないんだな。
リハビリ室、トイレ、洗面所、風呂、売店。
毎週火曜日のレントゲン室、遠いんだよな。
行けるかな…。
拾えない。
あっ…。
歩行器で洗面所から戻る廊下で、歯ブラシセットを落としてしまった。
拾わなきゃ。
円筒形の透明なビニールケースが足元に見える。
遠いな。
拾う動作はイメージできる。
歩行器から片手を離して膝を曲げて腰を落として、背中を丸めて手を伸ばせばいい。
わかってるけど…。
無理だ。
何もできない。
歩行器に両肘を乗せたまま、床に落ちた歯ブラシを見つめて立ち尽くす。
拾えないや。
目の前が暗くなっていく。
最近、歩行器で歩けるようになって喜んでいた。
毎日入浴できるようになって、嬉しかったんだ。
このまま続ければ歩けるようになる。と思ってたけど…。
本当かな。
毎日頑張ってるのに、床に落ちた物を拾うことさえできないんだ。俺。
あとどのくらい頑張れば、拾えるようになるのかな。
このまま一生、拾えないかも知れないな…。
足音。
誰か、歩いて来る。
60台後半に見える、隣の病室の患者さんだ。
頼んでもいいかな。
あの、すみません。申し訳ないんですけど、これ、拾っていただけたりしますか?
「あ?これか。ええで。」
ゆっくりと腰をかがめて、落ちた歯ブラシに手を伸ばす。
「よいしょっと!」
拾ってくれた。
ありがとうございます。助かりました。
「あいよっ。」
腰に手を当てて歩いて行く後ろ姿。
杖なしで歩けてても、拾うのはしんどそうだったな。
整形外科に入院してるんだもんな。
どっか痛いはずだよな。
悪いことしちゃったな。
この人だって、ちょっと前までは歩行器だったかも知れない。
痛いけど歩く練習して、杖で歩けるようになって、今だって痛みを我慢して歩いてる。
入院してる人、みんなそうなんだ。僕だけじゃない。
みんな、頑張ってるんだ。
不安になってもしょうがない。
頑張るしかないんだ。
車椅子がなくなったのは、歩行器で歩けるってこと。
そこまで回復した証拠だ。いいことじゃないか。
頑張って、どうしても無理なら助けてもらえばいい。
それがリハビリ。
大丈夫。僕だってきっと、歩けるようになる。
歩行器さん、よろしくお願いします。
頑張ろ。
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