退職代行。ない時代でよかった。
所長、すみません。ちょっとご相談したいことがあるのですが……。
先輩社員のいない時を見計らって、デスクの前に立つ24歳の新入社員。
営業経験の長い所長なら、相談内容はもう察知していたんだろう。
「ここで、いいのか。」
いえ、会社じゃない方がいいです。
「今日、終わったらメシでもいくか。」
はい。ありがとうございます。
近くのファミレスで、向かい合わせ。
「いつも、何食ってるんだ。」
外で定食とかが多いです。
「そうか。」
はい。
テーブルの水を飲む。
なかなか、言い出せない。
所長は、待ってくれてる。
そろそろ、言わなきゃな。
あの、会社を、辞めさせていただきたいんです。
言えた。
言ってしまった。
胸に痞えていた息が、ふぅっと出て行く。
新しい空気が肺に流れ込んでくるのがわかる。
俺、ずっと呼吸してなかったんだな。
目線を上げる。
所長は、表情を変えてない。
天気の話を聞いたかのように、穏やかなままだ。
驚いてもいない。
僕にとっては一大決心なのに、所詮は他人事なのかな。
「辞めた後は、どうするんだ。」
広告関係の会社に、再就職しようと考えています。
「そうか。大学で広告の研究してたんだったな。総務から聞いてるよ。」
はい。
「やりたいことがあるなら、いいんじゃないか。辞めても。」
意外と、あっさりだな。
もっと、いろいろ訊かれると思ってた。
新人指導係の先輩との関係とか、職場環境とか、給料とか。
「こんなに整ってるのに、何が不満なんだ。俺の若い頃はな……。」
そんな言い方をする人じゃないけど、いろいろ言われるだろう。
引き止められるだろうな。
と思っていた。
何もなかった。
話は終わってしまった。
注文した料理が届く前に。
あっけなく。
「いつ辞めるんだ。」
えっと、来月にでも。
「もう、再就職先決まってるのか。」
いえ。まだです。
「それなら、次のボーナスまで居ればいい。家とか引越とか、金かかるだろ?」
本当は、明日にでも辞めたい。
あの先輩の顔は見たくない。声も聞きたくない。同じ空気を吸いたくない。
もう、限界なんだ。
でも確かに、金はあった方がいい。
今10月だから、あと2ヶ月我慢すれば冬のボーナスが出る。
それで、引越代と最初の家賃は払えるな。
所長の言う通りにしてみようかな。
ありがとうございます。じゃあ、そうさせていただきます。
料理が運ばれてきた。
照り焼きの鶏肉から白い湯気が上がって、いい匂いがする。
旨そうだ。
「まあ、食おうか。」
はい。
旨い。
久しぶりに、そう思えた。
最近、味もわからなくなってたんだな。
それくらい、悩んでいた。
味覚が戻っただけでも、今日、話して良かったな。
この地獄も、あと2カ月で終わる。
長いけど、永遠よりはいい。
目の前で所長が食事している。
二人で食べるの、初めてだな。
僕は、父親と話した記憶がほとんどない。
僕が小学校に上がってすぐに入院して、葬式の日まで帰って来なかった。
生きてたら、所長くらいの歳なのかな。
この人は、この会社に30年近く勤めてる。
どんな会社員人生だったんだろう。
悩みもなく、順調に出世したのかな。
どうせ辞めるんだ。
この際、訊いてみようかな。
所長は、辞めたいと思ったことはないんですか?
「数えきれないよ。」
笑ってくれた。
長い時間。戦い続けて来た戦士のような笑顔で、一言だけ。
決して順風満帆じゃなかったんですね。
嵐の夜も、耐えがたい苦しみも、乗り越えた男の顔。
申し訳ない気持ちになって、それ以上は訊けなかった。
家に帰って、風呂に浸かる。
あったかい。
気持ちいい。
思わず目を閉じる。
身体が、リラックスしてる。
こんなの、いつぶりかな。
もう少しで、この部屋ともお別れだな。
寮が遠いからって、所長が営業所の近くへの引越を認めてくれたんだ。
通勤は楽になったけど、
仕事のストレスは日に日に大きくなっていく。
販売店を廻る毎日。
運転中に鳴り響くポケットベル。
トラックを停めて電話できる公衆電話を探すけど、見つからない。
やっと電話すると、工場長の怒鳴り声。
「おせーよ!」
すみません。
「おめーのせいで、俺が怒られんだよ。いい加減にしろよ!」
申し訳ございません。
遊んでたわけじゃない。
店から店へ。
真面目に営業してるんだ。
自分の都合だけで怒鳴りやがって。
どうしろって言うんだよ。
飲み込んだ言葉が胸に詰まる。
溜まると、胃の痛みに変わる。
そして、消えない。
夜も休日も、気が晴れないまま一瞬で終わる。
会社へ行けば、またあの地獄。
もう嫌だ。
そろそろ限界だな。
俺の人生、こんなもんか。
第一志望の会社だったけど、現実は究極の体育会系。奴隷扱い。理不尽の極み。
(※ハラスメントとか、ブラック企業なんて言葉はまだない時代です。)
こんな職場で働くために勉強したんじゃない。
もっと、自分に合う仕事があるはずだ。
そう言えば、大学の就職指導の先生が言ってたな。
「君、そんなとこでいいのか。」
はい。やりたいことができる会社なので。給料では選んでません。
「君がいいならいいけどね。面白いね。頑張りなさい。」
やっぱり、大人の話はちゃんと聞いた方がよかったのかも。
今更、後悔しても遅いよな。
いや、遅くない。
まだ24歳なんだ。
こんな会社で我慢し続けたら、あいつらと同じ人間になっちまう。
あんな人間からは、早く離れた方がいいんだ。
自分が嫌いになる前に、自分に合う会社を探した方がいい。
そうだ。そうしよう。
会社、辞めよう。
今日やっと、所長に言えた。
言って良かったな。
ベッドに入る。
頭の中にモヤモヤが渦巻いてなかなか眠れなかったけど、
今夜は落ち着いてる。
久しぶりに、ゆっくり眠れそうだな。
やっぱり今日、話してよかったな。
朝が来た。
昨日までの気の重さが半分になってる。
会社へ行くのは嫌だ。
けど、それも半分になってる。
身体がいつもより軽い。
おはようございます!
朝の挨拶の声も元気になってる(笑)。自分でわかる。
所長はいつも通りだ。
先輩は相変わらず蛇のような目で僕を見る。
大嫌いだ。
けど、もうすぐこの人とも関係なくなる。
逆に、そんな目になった先輩が哀れに思えてきた。
あなたの人生、そんなんでいいんですか?
僕は、もう辞めるんです。
辞めたら関係ない。
もう二度と、もう一生、会うこともありません。
新人をイジメられるのも、バカにできるのも、もう少しだけですよ。
いつもより早めに、外廻りの準備を終える。
行って来ます!
自分のトラックで国道へ走り出す。
なんか今日の空、いつもより明るい気がする。
風も、気持ちいいな。
(1989年10月 24歳。)
ポケットベルってご存知ですか?
携帯電話が普及する前に、会社に持たされた通信機器です。
後に進化して、ディスプレイに数字が表示されるものに変わるんですが、
僕の時代はまだ音だけでした。
鳴ったら、会社に電話して要件を聞かなければなりません。
懐かしくも嫌な思い出です。
冬のボーナスをもらって辞めるつもりが、春になり、営業所に配属されて1年半で、本社へ転勤することになりました。
「転勤の辞令出たけど、どうする?」
退職します。
「辞めるのはいつでもできるぞ。向こうへ行ってからでもな。」
確かに。そうですね。
辞めるつもりで転勤した本社。
新設されたばかりの部署に配属され、若手の男性社員は僕一人。
4人の上司それぞれから
「これ、○時までにやってくれ。」
3人の女子社員に
「ちょっと、キャビネットの上の箱降ろして。」
走り廻っているうちに終わる毎日。
忙しすぎて、辞めることさえ忘れていた。
そのうちに、仕事が面白くなってきた。
そのまま34年(笑)。
あの時、スマホがあったら。
退職代行があったら頼んでいたかも知れません。
事務的に、機械のような手続きで退職してたかも知れない。
あの時、ポケベルしかなくて良かった。
所長に相談して良かったな。
通信技術の進化も、時代の変化もいいことだけど、
人の心は、そんなに変わってないように思います。
学生が社会人になって違和感に悩む気持ち。よくわかります。
わかりますけど、
見ず知らずの代行業者に依頼する前に、周囲の人に相談してみるのも、アリかも知れませんね。
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