William Delmé-Evansによる第二次世界大戦後のウイスキー蒸留所設計を探る、ための経歴整理
ジョージ・オーウェルが『1984』を執筆したことで知られるスコットランドのジュラ島旅行に行ったとき、見学したアイルオブジュラ蒸留所の設備が、コンパクトかつシンプルで、無骨で合理的ながらディテールではかわいらしい印象も受けるデザインが印象的でした。
ウイスキー蒸留所の設計者といえば、50以上の蒸留所に関わったという19世紀のチャールズ・ドイグ(Charles Cree Doig)さんが有名ですが、ここでは20世紀のウィリアム・デルム・エヴァンス(William Delme-Evans)さんを追いかけます。
いずれはエヴァンスさんが提唱した「an up-to-date gravity-flow distillery」という考え方を、それまでの蒸留所設備との比較から探ってみたいのですが、今回はその前段階として、彼の経歴を整理します。
ウィリアム・デルム・エヴァンスさんの略歴
『The Scotsman』2003年8月22日付け訃報記事によると、ウィリアム・デルム・エヴァンスさんは、第二次世界大戦後のスコットランドにおけるウイスキー復興の最前線に立ち、タリバーディン蒸留所とジュラ蒸留所、グレンアラヒー蒸留所を設計し、業界全体の品質と収益性の向上に貢献したとのこと。
1949年のタリバーディン蒸留所設立といえば、第二次世界大戦後初となるだけでなく、1900年のグレンエルギン蒸留所設立以降、約半世紀ぶりとなる快挙です。いったいどのような経緯で蒸留所設立に至ったのでしょうか。
1932〜1953年 元徴税官が与えた影響・Tullibardine
以下、『scotchwhisky.com』の2017年10月3日付けGavin D Smith氏による記事を意訳していきます。
ウイスキー需要が高まるなか、生産開始からわずか4年でタリバーディン蒸留所を売却した背景には、ウイスキーの販売先から仕掛けられた買収があったとは…。
タリバーディン蒸留所設立の影の立役者であり、友人の父である元徴税官とは、どんな方だったのでしょうか。そもそもスコットランドのウイスキー産業における徴税官の役割とは何か、いずれ深掘りしてみたいです。
1956〜1975年 地元の雇用創出・Jura
アーチボルド・キャンベルによって最初の蒸留所が設立された1810年のジュラ島には、当時、1,000人以上の人口がいました。しかし、1901年には蒸留所が閉鎖され、2 度の世界大戦の影響もあり、島から多くの雇用が失われます。離島では何事にもコストがかかり、フェリーもアイラ島を経由する必要があるなど輸送手段が限られていることが背景にあります。
蒸留所は60 年以上も休眠状態でしたが、地主であるロビン・フレッチャーとトニー・ライリー・スミスの両氏が、人口減少の進行を懸念し、地元に雇用を創出したいと考え、最終的に島にウイスキー製造の復活を決定しました。
デルム・エヴァンスさんには、ウイスキーブレンダーであるチャールズ・マッキンレー&カンパニー社経由で声がかかり、新生ジュラ蒸留所の設計をすることになります。
このとき、蒸留所の建設だけでなく、住宅の建設や近くのホテルの拡張もあり、携わる建設業の働き手は400人以上にのぼったとのこと。週末の金曜と土曜の夜には、ホテルのバーでカトリック系のセルティックファンとプロテスタント系のレンジャーズファンに分かれてひどい喧嘩が起こり、警官がいないジュラ島では、地元の医者が手当てしていたそうです。設計だけでなく喧嘩の仲裁までなんて、大変!
デルム・エヴァンスさんは1975年までジュラ蒸留所の所長を勤めますが、1970年代にヘレフォードシャーに自宅を購入したことで、自宅とジュラ間の通勤のために滑走路を建設し、その後、セスナを購入してパイロットの免許を取得しています。飛行機通勤、憧れますね。
1960年 依頼と決裂・Macduff
デルム・エヴァンスさんは、タリバーディン蒸留所の売却先であるブロディ・ヘップバーン社を含むコンソーシアムからの依頼を辞した後、マクダフ蒸留所に関わったことにその後一切言及しなかったとのこと。マクダフ蒸留所といえば、独特な曲がり方をしたラインアームが特徴的ですが、この設計を誰がどんな意思決定過程を経て行ったのかとても気になります。
1967〜1968年 設計思想の集大成・Glenallachie
1960年にジュラ蒸留所を買収したスコティッシュ&ニューキャッスルブルワリーは、ジュラ蒸留所の株式の半分を所有しており、その子会社であるマッキンレイズ(Mackinlay McPherson)によってスペイサイドに蒸留所を建設したいと考えていました。依頼を受けたデルム・エヴァンスさんは、まず用地を見つけ、蒸留所と建物を設計する必要があり、「適切な水を見つけるのはかなり大変で、ベンリネスからアベラワー近くに購入した敷地までパイプで水を汲み出しました」とのこと。なんと、仕込水をそんな方法で確保したとは!
そして「これは、過去数年間に得た知識をすべて結集する大きなチャンスでした。この時までに、蒸留される蒸気の速度を解明し、その知識をすべて駆使して実際の蒸留器を設計することができました。私はすべてのプラントと建物のレイアウトを設計しました」とのことなので、デルム・エヴァンスさんによるグレンアラヒー蒸留所設計の特徴とその後の経過(オーナーが変わっても活かされているのか等)をいずれ追いかけたいです。
まとめ&これから知りたいこと
第二次世界大戦後のスコットランドにおけるウイスキー復興の最前線に立ったウィリアム・デルム・エヴァンスさんの設計思想は、スコットランドにおける1960年代のウイスキー蒸留所の増改築ブームに対して影響を与えたのか。19世紀末と20世紀半ばの増改築ブーム期、あるいは現在の増改築ブームを比較して、どのような特徴の差異がみられるのか。そのあたりも含め、今後調べていきたいです。