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いろんなものが忙殺され流されていく世界への反抗

最近も色々な出来事があった。noteに書き残したい話も色々あれど、なかなか書き残せていない。

いろんなものが忙殺され、流されるように忘れていってしまうという状況は非常によろしくない。

ということで、会社のデスクのキーボードのコードの上をいつも走っているエフフォーリアの引退に思ったことを、書き残しておこうと思った。


先日の京都記念で心房細動を発症し競走中止となったエフフォーリアの引退が、京都記念の翌週に急遽発表された。

京都記念は、目移りする馬が多く、ちゃんとした買い目を組み立てる自信が無かったこともあり、純粋に一番勝って欲しいと思ったエフフォーリアから馬券を買っていた。

が、京都記念で競走を中止した姿をみて、エフフォーリアはもう勝てないんだろうなと思ってしまった。

しかし、ここまで応援してきた馬だし、次に出走してきた時には、やっぱり買い目に入れざる得ないんだろうなという気もした。

自分もその走りに魅入られた1人だが、3歳時に見せつけたその強さもあり、エフフォーリアはファンの多い馬だと思う。故に、負けても負けても人気をする、馬券的妙味が生まれない馬でもある。

なので、エフフォーリアの引退の話を聞いた時は、薄情にも、これで馬券の買い目で苦悩することも無くなると、少しホッとしてしまった。

以前にも書いたが、散漫な性格が故か自分は何かを全力で応援したいという感情はあまり持ち合わせていない。

だからこそ、レースの都度応援する対象を自らの意思で決め、大事なリソースであるお金を賭けて応援することの出来る競馬こそが、自分にとって数少ない応援という行為を全力で楽しめる貴重な趣味だったりする。

同じくこのところずっと応援を続けているパンサラッサは、エフフォーリアとは打って変わって、遥か遠く中東の地で大金星を挙げ一躍スターダムを登り詰めた。が、この勝利は嬉しくはあるが、これまでずっと応援を続けてきた割には、そこまでの感慨は無かった。

これも薄情ながら、パンサラッサが馬券を買えない中東の世界最高賞金のレースを勝利したところで、ただこれからの馬券妙味が減るだけで、自分には何のリターンも無いからに他ならない。


エフフォーリアの引退を受け、そんな薄情な自分について、なんだか考えてしまった。


競走馬とは、走るために産まれてきた産業動物だ。

かといって、美味しいお肉を食べるような感じで、産業動物として割り切った目で競走馬を見ることで競馬が楽しくなるかというと、そんなことは無いと思う。

少なくとも会社のデスクのキーボードのコードの上を走るエフフォーリアは、仕事中の自分に癒やしを与えてくれているし、その存在には感謝すべきである。

どうしても自分の思考は、数値化され視覚化された、わかりやすいものを追い求めがちな気がする。

だからこそ、こういう自ら薄情だと感じてしまう感情には真摯に向き合わないといけないなと、そんな気がした。

忙しい現代社会。

いろんなものが忙殺され流されていってしまう中、数値化され視覚化された、わかりやすいものを人は求めがちなのかもしれない。

だからこそ、感情という非定型なものにこそ本当の価値があるのかもしれない。

エフフォーリアの引退にそんなことを思ったりした。

ありがとうエフフォーリア、産駒の活躍が今から待ち遠しいよ。


さて、エフフォーリアは引退したが、パンサラッサはこの後も現役バリバリである。応援はしたいが、馬券妙味の減ってしまったパンサラッサとどう付き合っていこうか。

理と情とか、平静と情熱とか、そういうせめぎ合いも競馬の醍醐味なのです。

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