《“もっと”楽しむシャニアニ雑記⓪》 シャニアニを見る「視点」と「気持ち」
はじめまして、じーにょと申します。
皆さんは、「シャニアニ」をご覧になっているでしょうか?
「シャニアニ」とは、2024年4月5日より放送が開始されたTVアニメ「アイドルマスター シャイニーカラーズ」のこと。もう1話を見た、ちょっと気になってる、名前くらいは聞いたことある、などなど……この記事を開いてくれたくらいには興味あるよ!という感じなのかなと思います(ありがとうございます!)。
この「シャニアニ」、個人的には非常に好きなアニメなのですが……いかんせん癖が強い。いや、癖がなさ過ぎると言うべきか…… とにかく、“初めて見る”人が取りこぼしてしまう物事が多いアニメのように思います。現に、SNSでもそんな感想をちらほらと見かけています。
でも、実は。
じっくりと視聴してみると、『目標を見つけ努力を重ねている人』『表舞台に立たずとも頑張っている人』『表現者として成長を志す人』たちを、非常にポジティブに肯定して、あなたの背中を押してくれるような作品だと思うのです。そんな素敵なメッセージを取りこぼしてしまうのは、ちょっとさみしいな……と。
そこで、「シャニアニ」を“より”楽しむための視点や解釈を、ぼくなりの視点で雑に書いてみるnoteを始めていこうと思います。どんな方もフラットに楽しめるよう、なるべく“アニメから読み取れることだけ”にフォーカスして。各話ごとにコツコツと記していく予定です。ぜひ、一緒に「シャニアニ」を楽しみましょう!
今回は、キックオフとして「シャニアニ」の全体像を捉えつつ、視聴の視点やポイントを考えてみます。
なお、「シャニアニ」は2023年10月から劇場で先行公開されていて、筆者は既に全編を4,5回は視聴済み(いやもっと…?)です。最終話まで内容を知っていますが、ネタバレしないように放送話に合わせて記事を続けていく予定です。ご安心ください( ᷇ᢦ ᷆ ) (あと、筆者がデザイナーであるせいで、内容がビジュアル面に寄りがちです。音楽面は別のだれかたのんだ……)
「シャニアニ」はどんなアニメか?
まず最初に、「シャニアニ」を楽しむためにお伝えするべきことが1つあります。それは、
このアニメは「ザ・エンタメ」な作品ではない
ということです。
アニメ作品の多くは、ドラマ性のあるストーリー、目を見張る映像や声優さんの演技など、様々な方法で視聴者を楽しませようと工夫を凝らしています。特に1~2話で善し悪しを判断される昨今。少しでも多くの人に“刺さる”よう、多少大げさに誇張しながら、楽しめるフックをたくさん用意するわけです。
アイマスの過去のアニメ作品も例外ではありません。アイドルたちが、抱える苦悩や挫折を乗り越えて成長していく。カタルシスのあるドラマを展開することで、私たちは感動したり、心酔したり、感情移入したり……と心を動かされる。面白い!と感じるのだと思います。
で、本題の「シャニアニ」ですが、このアニメにはそういった“わかりやすいドラマ”がほとんどありません。ゼロではありませんが、昨今のアニメと比べると物語の起伏があまりなく、非常に“静かな”作品に仕立てられています。
「シャニアニ」が描くのは、16人の少女たちが「アイドル」に変化していく姿そのものです。劇的なドラマはなく、日常のなかで積み重なる小さな出来事が、少しずつ少女たちを変えていく。その細かな心の機微を、非常に丁寧に描いています。
ゆえに、視聴する私たちのスタンスも、他の作品と少し違ってきます。刺激的な映像と物語を受動的に楽しむのではなく、繊細な映像や物語から能動的に文脈を拾い解釈する、という楽しみ方のほうが合うはずです。(だからこんな記事を書いているわけで)
言わば、MCUの『アベンジャーズ エンドゲーム』のような「見て楽しい!」刺激モリモリのエンタメアメコミヒーロー映画に対する、クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』のような「表現から細かく読み取り解釈するのが楽しい」ドキュメンタリー風作品、みたいなイメージです(異論は認める)。
明らかに現在の潮流、過去のアイマス作品の様式から外しているわけで、挑戦的な構成と言えると思います。そのため、アイドルのドラマに溢れた成長譚を期待して「シャニアニ」を見てしまうとと、肩透かしを食らってしまいがち。本格的に視聴する前に、ぜひこのことを頭の片隅に置いていただけるといいのかな…と思います。(以下も、それを前提に記していきます)
で、なんでこんなアプローチを採用したんや?
となるわけですが、それは原作ゲーム「シャニマス」の存在が関わってきます。
原作の「シャニマス」と、アニメの「シャニアニ」
「シャニアニ」には、原作となるゲーム「アイドルマスター シャイニーカラーズ」(以下「シャニマス」)があります。詳しくはぜひいろんな情報サイトを見ていただくとして……公式の概要を引用すると以下の通り。
ポイントは、
・283プロダクションのプロデューサーとして
・新人アイドルを育成する
・シナリオがゲーム内で明確に描かれている
こと。
ベースとなる物語はすでにゲーム内で緻密に描かれており、リリースされた2018年4月からの6年間で、アイドル個人も、ユニットの成長も、プロデューサーによる育成の話もかなり進展し、それぞれ深く掘り下げられています。
それを改めて、アニメとして“最初”から描き直しているのが「シャニアニ」。現在の視点から捉えなおしたアイドルの原初を、余計な情報を極力加えず、ただひたすら誠実に映像化しようとしています。
「シャニマス」で描かれてきたアイドルたちの個々の心情、物語、美麗なビジュアル、それらが創り出す空気感を損なわないようにしつつ、“プロデューサー”が“育成”するというゲームコンセプトをシナリオに組み込んでいく……
これらを全て実現するために、単なる少女たちの成長譚ではなく、“育成”として視聴者にアイドルたちの輝きを見いだしてもらう=能動的に視聴してもらうアプローチを採用したのではないかと思います。
無茶なことをしますよねホント(褒め言葉)
「シャニマス」の根幹、“育成”と“プロデュース”
「シャニマス」にとって、“育成”と“プロデュース”というコンセプトは、根幹とも言えるほど大切にしている概念です。ぼくなりの解釈になってしまうのですが、少しだけ深掘りをしておきます。(ちょっと抽象的な話をするので、飛ばしてもOK)
「アイドル」は、ステージで歌やダンスなどのパフォーマンスをする表現者です。
が、歌もダンスもビジュアルも、決して“スペシャリスト”ではありません。残酷に言ってしまうと、素人の延長線上にいます。新人なら、なおさら。
しかし、私たちはアイドルたちに魅力を感じ、心を動かされるから、ファンになるわけです。決して“スペシャリスト”ではないアイドルが、人の心を動かしうる「輝き(価値)」はどこにあるのか?いったい何なのか?
……ということを問い続けることが、「シャニマス」が“育成”と“プロデュース”を通して掲げるテーマの一つだと思います。
当然、「輝き方」は多種多様。人間性、性格、パフォーマンス、歌声、ビジュアル、思想、愛嬌などなど……個々で全く異なっており、「アイドル」たちはそのポテンシャルを秘めた存在。どこがどう光るのか、無限の可能性があります。
“プロデューサー”は、そんな彼女たちの無限の可能性の中から最も「輝く」ものを見いだし、最大化できるように育てていくことになります。個人の「輝き」だけではなく、ユニットとして交わることでより「輝き」が増していく。
そして、「輝き」という“価値”をパッケージ化し、“商品”として社会にリリースしていく。事業として成立するようにお金とクオリティをコントロールするのが、“プロデューサー”の大切な(本来の)仕事です。
当然、売れる(=事業として成功する)ようにクオリティをコントロールするためには、アイドルたちをディレクション(≑育成)する必要があります。しかし、それが行きすぎると、アイドルに“価値”を押しつけてしまうことになる。アイドルが持つポテンシャルを殺してしまい、本来の「輝き」を潰してしまいかねません。
しかし、だからと言ってアイドルの素地だけを活かそうとすると、素人の延長線上から抜け出せなくなる。どこにクオリティラインを引いて、人を“育成”し、事業として“プロデュース”していくのか……という話は最近の「シャニマス」で語られるテーマなので一旦棚上げしておくとして。
アイドルを“プロデュース”することは、全くもって「甘くない」わけです。「シャニマス」は、そこに驚くほど愚直に向き合っています。
この根幹は「シャニアニ」も、変わりません。
アイドルにどんな「輝き」があるのか、どんなところに魅力を感じるのか、見いだせるのかは、視聴者である私たち一人ひとりでも異なるはずです。「シャニアニ」としては、その「輝き」をあなたに見つけてもらいたい。
だからこそ、説明をなるべく減らし、解釈する余地を存分に残しているのだと思います。視聴者のことを信頼しすぎているんだよな…(良い意味で)
物語を紡ぐ2つの視点——“アイドル”と“プロデューサー”
さて、ここまで“プロデュース”の側面について考えてきましたが、「シャニアニ」はプロデューサーが主人公の物語ではありません。主人公は、あくまでアイドルたちです。
ゆえに、「シャニアニ」では“プロデューサー”の視点だけでなく、“アイドル”たちの視点もたくさん描かれていきます。というか、こっちがメインです。
新しい世界に飛び込む彼女たちの立ち振る舞い、心情の変化、成長を見届けていくこと。映像として動くアイドルたちを純粋に楽しむこと。推し(or 担当)アイドルの活躍を応援すること。そういった楽しみ方も、「シャニアニ」を見る視点の一つ。「シャニマス」で描かれるイラストを強く意識した画作りも徹底されており、特にライブシーンは圧巻です。
また、アイドル全員の「輝き」を大切にしているため、誰かを主役としてフォーカスすることもしていません。センター的ユニットである「イルミネーションスターズ」とセンター「櫻木真乃」が物語を牽引するものの、可能な限り全アイドルの活躍をフラットに扱っています。全員が「一人分の空、一枚の羽*」であり、そこから変化する様子が全員分描かれていきます。(*第1話タイトル)
Twitter(現X)でも話題になっていたOPのアイドルが切り替わるシーンも、おそらく全員をフラットに扱いたいことの表れなのだと思います(表現の善し悪しは置いておいて)。
でもやはり「シャニアニ」は、“アイドル”の物語でもあると同時に、“プロデューサー”の物語でもあります。“アイドル”たちが表現者としてのプレイヤーであるとすれば、“プロデューサー”は裏方としてのプレイヤー。アイドルたちの「輝き」を表現するための場と機会を生み出すために、アイドルたちをしっかりと見届けながら縦横無尽に駆け回ります。「輝きを見いだす人」として、1人の登場人物かつ視聴者に一番近い立場で描かれているわけですね。
両者の視点の違いは、アニメ表現としても見られます。
“アイドル”たちのシーンはモノローグで語られることがほとんどなく、表情や言動で心情が表現されていきます。一方で“プロデューサー”にはモノローグがあり、考えていることが言葉として説明されます。
つまり、“アイドル”たちは他人として、“プロデューサー”は自分(シャニアニの世界を覗く“窓”)として描いているわけですね。”この表現の違いも、アニメを見る視点のヒントになるのではないかと思います。
ただし、先に述べた通り「シャニアニ」は“プロデューサー”が主人公ではありません。そのため、アニメ内で“プロデューサー”が見ている世界に限定することはなく、“プロデューサー”がいないシーン(いわゆる神の視点)も描かれていきます。つまり、“アイドル”と“プロデューサー”の視点が交錯し、混ざり合いながら描かれています。
だからこそ、私たちがどの視点で見るのか?どのような気持ちで見るのか?といったスタンスによって、「シャニアニ」の楽しみ方が変わってきます。
私たちの「視点」と「気持ち」は、どこにあるか?
前述の通り「シャニマス」のプレイヤーは“283プロダクションの“プロデューサー”であり、そこから派生してコンテンツのファンのことを「プロデューサー」と呼んでいます。ゲームに限らず、イベントやライブなどでも、ファンのことを「プロデューサー」と呼んでいる……というのは、ご存じかもしれません。
つまり、「プロデューサー」=「あなた」として扱っているわけですね。
「シャニアニ」においても、この関係性が強く意識されています。ここまで考えてきた、
・アイドルの輝きを視聴者に見つけてもらいたい
・“プロデューサー”を視聴者に近い立場として描いている
というアプローチも、「プロデューサー」=「あなた」という考えが根底にあるがゆえのもの。
だからこそ、「シャニアニ」はアイドルたちの物語であり、“プロデューサー”の物語でもあり、「あなた」「わたし」の物語でもあります。アイドルたちを見て感じたこと、思ったこと、考えたこと、行動したことは、全て「あなた」「わたし」の物語であり、それらを見つけ紡ごうとする営みが私たち視聴者による「プロデュース」である……捉えているように思います。
「シャニアニ」第1話の終盤で、天井社長が「物語を始めよう」と語りかけてくることからも、そのような意図があるのではないでしょうか。
物語の中で様々なアイドルが変化・成長し、アニメの“プロデューサー”も呼応するように成長し、私たちも変化・成長する。どんな物語かはネタバレになるのでこの先はぜひ一緒に視聴していければと思うのですが、最終的に「わたし」たちの背中をやさしく押してくれる、勇気をもらえるのではないかな……と思います。
ただ、「プロデューサー」として視聴するにはそれなりにしっかりと読み解かねばならず、どうしても視聴者に負担がかかりがち。“見やすいアニメ”とは言いづらいなぁ…とも思います。
個人的には、「プロデューサー」ではなく一人のファンとして、映像で動くアイドルを純粋に楽しむのも、深く考えずにふわっと眺めながら視聴するのも、全然アリだと思います。解釈も、視聴のスタンスも自由だし、むしろいろんな人の感想を聞きたいくらいです。
そのなかの一つの楽しみ方として、上記のような「プロデュース」の視点もあるといいな……と願い、微力でもお役に立てればとnoteを書き始めた次第です。これから毎話ごとに雑記を書いていこうと思うので、よければぜひお付き合いください( ᷇ᢦ ᷆ )
「シャニアニ」の物語と、“空”のビジュアル表現
最後に、個人的に大好きな“空”の表現について軽く紹介して、この記事を締めていこうと思います。
「シャニマス」では、アイドルが輝いて活躍していくことを「羽ばたき」に喩えて表現しています。新人アイドルである“283プロのヒナ”たちが、「輝き」を見つけて大空へ羽ばたいていく———— ゆえに、空、羽根、羽ばたき、輝きといった表現をキーとして大切に扱っています。
「シャニアニ」でも、「羽ばたき」の喩えをアニメ表現としてとても丁寧に落とし込んでいます。直接的に羽根が描かれたりセリフで語られたりもするのですが、何よりも“空”のビジュアル表現が素晴らしい。
キービジュアルでは少女たちがアイドルへと変化していく予感を《宵》として表現していたり、アニメ本編でも重要な場面で“空”模様が印象的に描かれていきます。「ツバサグラビティ」のOP映像などで“空”が地面に反射する様子も、歌詞と合わせたら解釈が捗る捗る。
この“空”の表現は、最終話で文脈としてもキレイに回収されていくので、ぜひ注目してみてください。(これ以上はネタバレになるか何も書けない…)
長々と書いてきましたが、要は一緒に「シャニアニ」を楽しみたいな、一緒に楽しめる人がたくさんいると嬉しいな、と願う次第です。Season 2を含めてコツコツと続けていこうと思うので、何か良い情報をお伝えできていますと幸いです。
あと、お願いだからSHHisとCoMETIKまでアニメ化してくれ頼む (◜‧̮◝ )
[余談 シャニアニの作品性とアニメの位置づけ]
既に7,000字を超えていてまさに怪文書なのですが、いかがでしたでしょうか。初回なのでちょっと気合いが入ってしまいましたが、次からはもう少しライトに書いていこうと思います…(身が保たない)。
ただ、『シャニPなんだけど「シャニアニ」にちょっとモヤモヤを感じる』方に向けて、少しスッキリできそうな考えをちょっとだけ記しておこうと思います。以下、余談です。
ゲーム原作でアニメ化すると、やはり期待するのが「布教」としての導線。より多くの人に「シャニマス」に触れてもらうきっかけになって欲しい、より多くの人に刺さりやすい作品であって欲しい。だから、見やすくて感情移入しやすいドラマも欲しかった。という気持ちがあるのかなぁ…と思います。
わかる。めっちゃわかる。
ただ、たぶん「シャニマス1年目」を描くには、その材料がなかったという事情もあった気がします。そういうドラマは、どちらかというとストレイライトやノクチルの方が適任であるようにも感じますし。
だからこそ、両ユニットが登場する「Season 2」の存在を放送前に公表したのかもしれません(邪推ですが)。波乱っぽいドラマを期待させつつ、今は純粋にアイドルたちが羽ばたく瞬間を見て欲しい、ということなのだと思います。
また、アニメ作品としては“宣伝ツール”にする気はさらさらなく、分かりやすさを優先して「シャニマス」の空気感や物語を損なうなら、ハードルを上げてでも作品性を高めていく…という割り切り方をしたように思います。でも、その反面でアイドルのキャラ属性を削らざるを得ない部分が出てきてしまったりもするので、なかなか難しいところ。ここでは語りませんが、自分もいろんな気持ちはあったりします。
やはり合う合わないはあると思うのですが、そんな足らない部分も含めて「シャニマス」らしいなぁとも思いますし、個人的には愛してやまない部分だとも思います。もし気が向けば、「シャニアニ」をぜひじっくりと見てみてください。あなたにしか見つけられない文脈があるはずです。
ぼくは、そんないろんな人が見つけた文脈を聞きたい。ので、みんな気軽に発信してくれ…………おねがいします( ᷇ᢦ ᷆ )