あとちょっと声量を出していれば、私の身体にその言葉は残らなかったのに
がやがや。ティンティロティンティロ。ポーン。がたたん。ざわざわざわ。
「あのさ」
その一言は、駅の喧騒にまぎれて、空気中に消えていった。
もう彼の背中がどこにあるのかわからない。
昨日のことだ。寝る前の日課になっているインスタグラムのショート動画、ストーリーをだらだらと眺める時間に私の手は止まった。
「今日で2年半! これからもよろしく!」
2つの重なった手の上に、その言葉が載せられていた。
時間が一瞬だけ止まる。
そして次に、卒業式で練習させられた手の形だな、と思った。中学校の卒業式の練習で、担任の先生が女の子に向かってこう言った。
「女子は、手をこうして膝の上に置いて座ってね! 左手を下にして、右手をクロスさせて重ねる。これが一番きれいに見えるからね!」
ストーリーで出てきた2つの手は、中学生時代に自分が見つめていた自分の手と同じだった。
いや、違う。正確には全く違う。同じなのはかたちだけだ。
私が作った手の形はどちらも、私の右手と左手だ。
でも、ストーリーで出てきたのは、彼の左手の上に、彼女の右手がのっている。
同じかたち、構図でも、まったくの別物だ。
そのことに気づいて、ひゅっと息をのんだのはきっと私。だって、この部屋には私しかいないのだから。
この、体をちょっとだけ突かれるような、それでいてじんじんと目頭が痛くなるような、心臓が1グラム重くなったような、そういう息苦しさにも似たかたまりみたいなものが、まだ私の体に残っていたのか。
私には、今でも後悔してる後ろ姿がある。
いや、正確には、もっと大きな声を出さなかった自分に後悔している。
今から2年前、私は大学3年生だった。夏。この時期から、うっすらと就活の匂いがそこかしこでしていた。
「先輩が〇〇から内定もらったんだって」「そういえばインターン始めるんだ」「とりあえず、マイナビ登録した」
そうやって自分が知らない間に、周りの世界と意識がどんどん先に進んでいく。電車に乗っているみたいだ。私は止まっているはずなのに、私が乗っている箱だけがどんどん先に進んでいく。気づいた時には乗ったときと全く違うところに連れていかれている。
そういう時期に私は、京都にいた。大学は東京だった。私は夏の京都にいた。
どうしてか、というと、簡単に言ってしまえば、インターンをしに京都に来ていた。
いやいや、さっき取り残されてる、みたいな空気感だしたのに? え? と思われているだろうか。
取り残されている、みたいな空気感をだしたのに、インターンに来ていた。
京都にどうしてもインターンに行ってみたい会社があった。中学生の頃から毎年使っているスケジュール帳を作っている会社だ。すごく小さな会社で、大きな就活サイトでは、インターンの情報は出てこなかった。
ダメもとで会社のHP、お問い合わせ窓口から連絡をすると、「いいですよ!」と快諾してもらったのだった。
この会社になら入りたい。大学3年生の、アルバイトしかしたことがない私がそう思う会社だった。わくわくしながら京都に降り立った。
夕方、京都駅に着いて、1週間滞在するホテルに向かった。
そのとき、ティロッ! と携帯が鳴いた。ラインがきたのだ。
「そういえば、たなべ、京都にいたよね? おれ、大阪にいるんだけど!」
彼は、「おれ」と書く男の子だった。「俺」でも「オレ」でもない。
「おれ」。ひらがな2文字。そこが好きだった。
「そう! 今、ちょうど京都に着いた!
まじ!? 大阪いるの? むっちゃ近いじゃん」
”じゃあ会おうよ”、その一言はつけられなかった。
ホテルに到着して、ベットに寝転ぶ。
「な! てかさ、じゃあ、一緒に夜ご飯食べようよ! おれ、京都行こうか?」
ああ、好きだ。きゅうう、と心臓が小さくなる。
ばたばたと無意味に足を動かす。
「いいね~!! 食べよ! 食べよ!
いや、私大阪行くよ! 駅いるからすぐに行けるよ!」
嘘だ。私は今、ホテルのベットの上にいる。駅になんかいない。
「まじ! 助かる~! じゃあ梅田で合流しよ」
だだだだっと起きて、メイクを整えて、それでも冷静にオートロックのキーカードを忘れないようにして、それで、走った。駅まで走った。
いけいけ私。走れ走れ私。
40分後、私は彼と大阪の居酒屋にいた。
すごくこじんまりした、全部で10席しかないたこ焼きが食べられる居酒屋だった。見つけてくれたのは彼。ああ、好きだ。このお店がもう好きだ。
男性店主がカウンターの向こうに1人。「どこから来たの?」「これがイチオシだから食べてよ!」すごく私たちに話しかけてくる。はたから見たらどう見えているんだろう。もしかして……
「君たちすごく面白いね! ハイボールサービスしちゃう!」
どん、と2つのグラスが私と彼の前に置かれた。
しまった。
私はめっきりアルコールが弱い。注射のときのアルコール消毒で肌が荒れてしまうぐらい弱い。今日もずっとソフトドリンクを飲んでいた。きっとそれを店主の方は、遠慮してる、と思ったのかもしれない。
どうしよう。
目がふらふらと泳いでしまったとき、横から手がにゅっと伸びてきて、私のグラスを引き寄せた。
彼の前にグラスが1つ。私と彼の間にグラスが1つ。
ちらりと横を見ると、彼がこっちを見ていて、「おれ飲むよ」と小声で言って笑った。目の前で店主が何かをずっと喋っている。たこ焼きが2つだけ残るお皿。関西弁の歌がBGMで流れている。お客さんは、カウンターの私たちと、隣の2人席に女性が2人。
ああ、好きだ。もう、すごく、好きだ。
そう思うと泣きそうになった。この時間が、ここだけの時間がずっと続けばいいのに。このままここにいられたらいいのに。
23時。明日からインターンだから、解散しよう、ということになった。
梅田駅まで、ねっとりとした熱さを感じながら一緒に歩く。人が多くて、ざわざわしていて、彼の声がなかなか聞こえなかった。そのたびに少しだけ大きな声で話を続けてくれた。
改札の前。彼は少しだけ張った声で「来てくれてありがと! 明日から頑張って!」と言った。
「うん! ありがとう! じゃ、じゃあまたね!」
ピピっ、と私は改札を通った。あっち側とこっち側。透明な壁が私と彼の間にできる。手を振って、前を向いた。
がやがや。ティンティロティンティロ。ポーン。がたたん。ざわざわざわ。
ほんとうに無意識だった。首を180度回して、彼を見ようとした。
お願い、まだ見送ってて。
彼は歩き出していた。後ろ姿だけが見えた。そしてそれもどんどん小さくなっていた。
「あのさ」
がやがや。ティンティロティンティロ。ポーン。がたたん。ざわざわざわ。
届かなった声は、空気中に消えていった。
でも、私の中には重く重く残った。
ベットの上、スマホの右端をタップする。そうすると次のストーリーが出てくるのだ。
見ないことにする。タップして見なかったことにする。だだだだ、と連続で右端をタップして思い出したいろいろを思い出さなかったことにする。
身体に残っている「あのさ」を見ないふりをする。