「センスある!」と言われる誕生日プレゼントはこれかもしれない、という話
21歳の誕生日、友達からガラスのお皿をもらった。
鎌倉で買ったという、少しだけ深さがある水色ガラスの器だ。
彼女が買い物をしているときに、ふと、もうすぐ私が誕生日であることを思い出したという。何をあげようか。迷った彼女は、私が一人暮らしをしていたから生活の中で役に立つものがいい、と考えた。
そして、近くにあった食器屋さんで誕生日プレゼントを買ってくれた。
プレゼントをもらったとき、その大きさと重さに私はびっくりした。
それまでもらった誕生日プレゼントというのは、大抵、サイズはとても小さい。紙袋やラッピング袋に入っているのは、ちょっとの量で3000円もするルームミストや、単色のきらきらしたアイシャドウだったりした。
女の子からもらう誕生日プレゼントというのは、ほとんどがこういった美容やコスメ、スキンケアなどが多い。自分では買えないからこそ、プレゼントでもらうと嬉しい、というものばかりだ。
だから彼女から「はい、誕生日プレゼント」と渡されたときの紙袋の大きさと、ずしんとした重さに思わず「おあ! なにこれ!」と声をもらした。
「きっと生活の役に立つよ」
彼女はそうにやりとした。
それから私は、彼女からもらった食器を今でもレギュラーとして使っている。パスタも、カレーも、にくじゃがも、オムライスも、基本的にこのお皿を使っている。
非常に生活の役に立っている。と、今だからこそ思う。
開けた直後の私は「食器か~……」と思ってしまっていた(本当にごめんなさい)。
だってだって誕生日プレゼントだよ? できるなら自分では買わないコスメや美容品、なくてもいいけどあったら嬉しい小型スピーカー、ふわふわのルームウェアとか、そういうのが嬉しいじゃない。
なんなら、私が誰かに誕生日プレゼントを買うとなったらそういうのを選ぶ。「え~! これ気になってたの!」なんて言われたいじゃない。そこで私のセンスを感じてほしいじゃない。
だけど今ならこう思う。
誕生日プレゼントに食器をあげるって、すごくセンスがある。むちゃくちゃある。
それは、今もその食器を使っていることもそうで、「なくならない」ということがすごい。
美容品やコスメはいつか「なくなる」。むしろ使うことが目的だから、なくなるのは必然だ。それに、”少しいいやつ”をもらうから、普段のよりも少し多く使ったりすると、誕生日から2週間でなくなってしまったりする。
もしくは、使わなくなったりするときもあるだろう。アイシャドウなんかコスメはとくに、自分に似合う色じゃなかったり、自分が扱えない色だったりするとタンスの肥やしになって、引っ越しと同時に捨ててしまったりする(現実談)。
ところが食器はそうじゃない。使うことが目的だから使うし、何より、「壊さない」ように使うことが求められる。人にもらったということも相まってより大切に扱う。
引っ越しのときにも食器を捨てるっていうのは、そうそうない。だって、次の家でも使えることがわかっているから。
さらに、その食器を使うたびに私は彼女のことを思い出す。
そういえば今はどうしているのかな? あのときこんなことをした思い出があるな。もう一度彼女に連絡とってみようかな、という具合だ。
誕生日プレゼントは、時限爆弾であるほどセンスがあるのかもしれない。
渡して、使って終わり、じゃなくて、それを使うたびにふと私のことを思い出してもらえたり、「そういえばたなべってこういうやつだったな。連絡とってみるか」なんて考えてもらえたら、それはむちゃくちゃセンスでしかない。
贈ってしまったらプレゼントのその先は見れない。もし、連絡がきたとしても、それがプレゼントのおかげだとは思わないかもしれないけど、そうやって縁が細く長く続いてくれるようなプレゼントを選べるセンスを磨きたい。