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カミソリで、自分を1ミリだけ削ること
腕毛が生えていたのが気になって、剃刀で剃った。そうするといつも思うのが、「あ、また自分のこと削っちゃった」だ。
少し言い過ぎな表現かもしれない。だけど、もしかしたら同じことを思ってる人がいるんじゃないかと思うからこのことを書こうと思う。
女の子は物心ついたときから、自分の体の外側が気になるんじゃないんだろうか。それは、いい意味でも悪い意味でも。小学生ぐらいから、「あの子ってなんだか男の子に人気があるな」と気づき始める。物心ついた子どもとは残酷で「やーいデブ!」と外側から強制的気付かされることもある。
普通だと思っていた自分の常識が、他人から見ればまったくの非常識であることをこのときに知るのだ。
それは、ドッキリで頭上からタライが降ってくるのと似ている。ある日、突然ずこーーーんと音を響かせて頭を打ってくる。
目がふたつ、鼻がひとつ、口がひとつ。顔にあるパーツは一緒なのにどうしてこうも私たちは違うのだろうか。
体重、身長、手足の長さ。どうして私たちは人間でひとくくりにされるはずなのに、こうも違うのだろうか。
そして、他人に見えている自分、の中で気になる要素の一つが「毛」だ。
腕毛、すね毛、産毛。自分という体から1ミリだけ飛び出でいるこいつら。自分のちょっと外側を守っている(といわれている)こいつら。
「毛を剃るなんて、日本だけ!!ほんとにおかしい!」
フェミニズムを語るテレビ番組で、女の人そう言っていた。絶叫に近かった。
毛を剃るのって、意外に大変、ということに気づいたのはいつだろう。
カミソリ負けって言葉があるくらいには、カミソリとの勝負に勝手に持ち込まれているし、体育の時間に膝をかかえて剃り残しに気づいたときにはちょっとだけ絶望することもある。剃っても剃っても次の日にはまた性懲りもなく生えてくる。
それがこいつらの役割であり、生きていることであり、やっかいなところだ。冒頭の気持ちになったのは、冬に手入れを怠って、いざアマゾンの密林のようになった毛たちを剃ったときだった。
ちなみに、冬場の女の子はとてもサボっている。腕は長袖で見えないし、足もタイツで見えない。アマゾンの密林は、言い過ぎな表現じゃない。
触るとふわっとした触感が自分でもわかった。髪の毛の先端を触られたときでも感覚があるように、毛の方も触られたな、という感覚があった。
今私は、自分が思っている1ミリ外側まで自分がいるんだな、と思った。自分を包む膜のようなものを想像させた。自分から発生する自分の膜。細胞とはこんな感じで1ミリずつ、外側から守られていて中心に核がある。
私も、毛から始まって、皮膚があって、筋肉があって、そうやって1ミリずつ内側にいくとその中心に心臓があるのだなと想像する。
だけど、私が手に持っているのは、カミソリ。私は自分から発生する、自分の1番外側を自分で削り取る。自分を小さくする。毛を剃るとは、そんな行為だなと思い知らされた。
ピーラーで、野菜の皮を剥いて、私は自分を見た気がした。料理家の人は「皮にこそ1番栄養がある」という。私の1番栄養がある部分も「毛」なのかもしれない。私は栄養を削り取っているのだろうか。
だけど、じゃあ剃毛をやめますか?と言われれば、私は今日も自分を薄く削り取る。毛がなくなってつるりとした肌を撫でて、私が少し小さくなってしまったことを思う。
私は、このつるりとした肌で明日を生きていく。自分で自分を削り取って、1ミリだけ新しくなった私で明日を生きていく。
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