「優しくなりたい」と思うたび、斉藤和義が心に染みる
人は、自分がしてもらった優しさしか返せない。
私が好きな本の、特に好きな一文だ。
今日、カフェで打ち合わせをしていたら、店員さんがさっとお冷やを出してくれた。きっと私が捲し立てるように話していたのが聞こえていたのだと思う。気配りがすごいなあ、と一気にそのお店、もとより店員さんが好きになってしまった。
またあるとき、会社の先輩から「わからないことない? あったらいつでも声をかけてね!」と言ってもらえた。私は社長の編集アシスタントだから、会社の細かいルールを聞けるような身近な先輩がいない。その言葉をもらって、嬉しくて泣きそうになった。
今まで受けたことない優しさに出会ったとき、私はいつも泣きそうになってしまう。
「こんな優しさの仕方があったんだ」と、その人が持っている心の縁をそっと触ったような気持ちになる。「すごいなあ、嬉しいなあ」と、まるでひとつの生命に出会ってしまったかのような感動。
心があったかくなる優しさを、すっと差し出せるこの人が私に新しい種類の優しさを教えてくれる。
そうすると次、もし同じ優しさに触れたとき、私はちゃんとその優しさに気づけるようになる。「これは当たり前じゃない、この人がくれた欠片なんだ」と思うことができるのだ。
と、ここまで書くと、次に気になってくるのが「私が気付けてない優しさ」について。
先の一文は意地悪な見方をすれば、してもらった優しさ以外には気付けない、ということになる。触れたことがない、もらったことがない優しさは、優しさとして認知できない。
だから私は、人が自分にしてくれたことは基本的に「優しいなあ」と思って受け取るようにしている。他にも自分がスムーズに動けたとき、そこに誰かの知恵や行動、優しさがあるからこそだと考えている。
だけど、私が気をつけているだけだと取りこぼしてしまっている優しさもきっとあると思う。ほんとうに申し訳ないけれど、ゼロではない。
もっと気づけるようになりたいと、いっつも思っている。そういう自分でありたいと、まいにち思っている。
店員さんのような気配りができるようになりたい。先輩のように周りに気付ける人でありたい。優しくありたい。
斉藤和義が歌った「優しくなりたい」は、まさに私の目標の言葉だ。