トラウマの引き金が「理屈に合わない」とき

トラウマの引き金(トリガー)には、明らかに理解できるものがあります。突然の大きな音、懐かしい香り、ある特定の言葉—それらは一瞬で過去の恐怖や痛みの記憶を呼び起こします。こうしたトリガーは「分かりやすい」ものです。

でも、では「そうではない」ものは?

過去のトラウマと直接結びついているわけではないのに、なぜか同じような感情の波が押し寄せ、心が乱されるもの—これらのトリガーも確かに存在します。

私にとって、そのひとつが妻が飛行機に乗ることです。

毎回、例外なく。

原因は飛行機事故ではない

私の不安は、墜落の恐れではありません。

実際、飛行機そのものに問題があるわけではないのです。私の心が直ちに最悪のシナリオを想像するわけでもありません。

それでも、身体はまるで「何か悪いことが起こる」と確信しているかのように反応します。

胸の奥が締めつけられ、息が詰まるような感覚が続く。

それは飛行機事故ではなく、「待つこと」、そして「分からないこと」への恐怖なのかもしれません。

「分からないこと」の重さ

私はこの感覚を知っています。

過去にも、私は「分からないこと」によって身動きが取れなくなったことがあります。

✔ 妻の緊急手術のとき、医師からの連絡を待つ時間。
✔ 重大な医療判断が必要なとき、結果が出るまでの不確かな期間。
✔ 何かが起こるかもしれない、でも誰も確証を持てない状態。

これまでにも何度も経験してきた、「生と死の狭間」にいるような感覚。

論理的には、今回の状況は違います。ただ飛行機に乗るだけ。それだけのこと。

でも、身体は違うと感じている。

そして今回は、より重くのしかかっています。

私たちの息子はもう家にはいません。もし妻に何かあれば、私は彼と一緒に待つことすらできない。

完全に、一人です。

滑走路の下に眠る「亡霊」

さらに、今回のフライトにはもうひとつの「意味」が絡んでいます。

妻が飛び立つ空港は、単なる空港ではありません。

かつてそこには、旧日本海軍の航空基地がありました。

✔ そこから飛び立った神風特攻隊員たちが、二度と帰ることのない空へ向かった。
✔ 米軍のB-29による爆撃で、空港の地下には今も不発弾が眠っている。
✔ 妻が最後に飛んだとき、彼女の飛行機が離陸した直後に、滑走路の地下で第二次世界大戦の不発弾が爆発した。

タイミングが少しでも違っていたら…と考えると、今でも背筋が凍ります。

こうした事実を知ったあと、私はさらに調べました。

「この土地は、まだ戦争を終えていない。」
「この土地の下には、今も過去の記憶が埋まっている。」

これまでずっと、「漠然とした不安」だったものに、新たな要素が加わったのです。

「理屈に合わない」不安、それでも消えない不安

私の不安は、論理的ではないと分かっています。

✔ 私が心配しても、何も変わらない。
✔ もし一緒にいても、何かあったときに救う力があるわけではない。
✔ 私が「守る」ことができるわけではない。

それでも、もし一緒にいれば「知ること」はできます。

「分からないこと」を待たなくて済む。

おそらく、私の本当の恐れは「何かが起こること」ではなく、「自分が知らないうちに、すべてが変わってしまうこと」 なのかもしれません。

もしかすると、これは「自分への問い」

この不安を掘り下げていくと、もしかすると問題は「彼女のフライト」ではないのかもしれません。

もしかすると、私の身体が訴えていることは別にあるのではないか。

私は、私一人で十分に生きられるのか?
彼女なしでの人生を、私は支えられるのか?

もし彼女がいなくなったら、私はどこにいるのか?

私には、この街で本当に支えになる人がいるのか?
私には、深く結びついたコミュニティがあるのか?
私が「私だから」助けてもらえるのか、それとも「彼女の夫だから」なのか?

私は、この土地に根を張り、家を建て、生活を築いてきました。

でも、それは「人とのつながり」とは別の話です。

そして、もしかすると—私の身体は、それを知っているのかもしれません。

トラウマのトリガーは、常に理屈では説明できない

トラウマのトリガーは、いつも明確な形をしているわけではありません。

飛行機の離陸。
静寂の中の「間(ま)」。
無意識のうちに引き起こされる記憶。

でも、それらに向き合い、理屈で押し込めようとせず、「なぜ今これを感じるのか?」と問いかけることで、私たちはより深い真実にたどり着くことができます。

だから、今日。

私はこの不安を否定せずに、ただ耳を傾けることを選びます。

それが、今の私にとっての「本当の仕事」なのかもしれません。

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