日本政府はなぜ円安を放置しているように見えるのか?
4月末に一時1ドル160円を超える円安ドル高を記録し、インフレを調整した実質実効レートで見る日本円の価値は1ドル360円の固定相場だった1971年のニクソンショック直前を10%近く下回りました。為替の影響によるインフレも進んでおり、マスコミや一般人の間でも日本政府の無策を批判する声が増えてきています。プロのエコノミストの中にも「日本政府はあえて円安に誘導している」と考えている人もいます。しかし私から見ると、政策サイドとマスコミや一般人、エコノミストの間には大きな誤解が生じていると感じることが増えてきました。そこで、ドル円相場についてどう考えるべきなのか、私の見方を書きたいと思います。
為替レートを決定する理論
為替レートは理論的にはどう決まるのでしょうか。結論から述べると、為替レートの変動を説明するまともな理論は存在していません。よく取り上げられる仮説は「購買力平価」「金利平価」「キャリートレード」ですが、いずれも限定的な状況で変動の一部を説明するに過ぎず、その相対的な重要性も絶えず変化しています。
購買力平価説は、モノやサービスの値段が両国で同じになるように為替レートが収斂していくという仮説ですが、収斂する根拠はあまりはっきりしません。そもそも価格差があっても日本の美容師が米国にいる人の髪を切るわけにはいきませんし、米国のコーラが安くても昼休みに東京のオフィスから買いにいく訳にはいきません。モノの値段であれば輸出入によってある程度近い値段に収斂するものの、そもそも生産に占めるモノの割合は長期的に下がっています。また米中の対立に起因して保護主義が台頭しており、自由貿易も逆回転を始めているように見えます。ますますこの仮説の説明力は下がっていくでしょう。
金利平価説は、金利差の分だけ金利の低い通貨が値上がりするというものです。例えば現在のレートが1ドル=100円、日本の金利が1%、米国の金利が5%であるとすると、今持っている100円を円のまま持てば1年後は101円ですが、ドルに換えて1年間置いておくと1.05ドルになります。つまり1年後のレートは1.05ドル=101円になっていなければいけないので、1ドルは1年後に 101/1.05 = 96.19 (円)になっているはずだという訳です。しかし金利平価は元来、現時点における1年後のドル円の契約価格(先渡価格や先物価格)を説明するだけであり1年後の予測とは言えません。この理屈に従えば円の金利が1%でトヨタの現在の株価が3000円であれば、1年後にトヨタの株価は(配当込みで)3030円になっていなければなりませんが、実際にはそうはなりません。価格は不確実ですし、投資家はリスクに見合ったリターンがなければ投資をしないからです。言い方を変えれば金利平価を予測に使うと、リスクを考慮していない価格しか出せないということです。
キャリートレードは金利平価説とは逆の仮説です。すなわち、金利が高い通貨に投資した方が得なので金利の高い通貨の方が価値が上がっていくという仮説です。金利の比較には名目金利が使われることもありますし、インフレ率を考慮した実質が使われるケースもあります。キャリートレードは投資家の行動による為替変動ですから、そうしたトレードがリスクに大して十分なリターンを生まなければ行われません。したがって、その時の日米金利差、為替変動の大きさ、投資家のリスクテイク能力、当局の為替政策によってこの仮説の有効性は変わります。
為替の需給はどう決まっているか?
理論で為替が説明できないとすれば需給を考えるのはどうでしょうか。現在のドル円相場は変動相場制であり市場原理に従い需給で価格が決まっています。短期的な需給を正確に予測することは困難ですが、長期的にドルと円の需給は実はそれほど複雑な動きをしてきた訳ではありませんでした。
1971年から1995年頃までは、日本企業は貿易で稼いだドルで継続的に多額の円を買ってきました。一方で個人の外貨取引は実質的には大幅に制限されていたため需給に大きな影響を与えませんでした。また政府は急激な円高を止めるためにドルを断続的に買っていました。トータルで見ると円買い圧力が強く、為替は長期的には一貫して円高方向に動きました。
1990年代の半ば以降は、企業が海外への工場移転により海外に投資するようになリマした。特に05年以降は企業の海外生産により貿易黒字が縮小したため円買いの規模は大幅に縮小しました。一方で橋本政権による金融ビッグバンにより金融規制が緩和され、多くの個人が外貨資産に投資するようになりました。政府は円高の時には円売り介入、円安の時には円買い介入を行いましたが、全体としてはあまり大きな役割を果たしませんでした。その結果、企業と個人のドル買い需要が勝り、実質実効レートで見ると継続的な円安になりました。
このように、長期的なトレンドを考えると、ドル円市場においては一貫して企業や個人の資本フローの重要性が高まってきており、貿易収支のような実体経済の指標の重要性は低下してきています。一方で短期的なドル円の需給は、資源価格や貿易収支、地震、コロナなどのイベント、日米金利差などさまざまな要因によって決まっています。
実体経済で近年注目されている指標も確かにあります。例えば、米国の大手IT企業などからのサービス購入が増え、情報サービスやコンピュータ関連のサービス収支は年6兆円規模の赤字との試算があります。また途上国への援助などの第二次所得収支の赤字も年2兆円規模と無視できない大きさになってきました。一方で、インバウンドの増加により旅行収支は昨年3兆円以上の黒字になりました。しかし、これらの項目も為替レートの決定的な要因とは言えません。日本は22年、23年と連続で過去最高の年35兆円もの資本収支黒字(利子や配当の受け取り)を計上しており、すべての経常黒字が国内に還流すれば円の需要は大幅に超過するからです。このお金が国内に還流しない上に、個人が外貨に対する投資を年10兆円を超えるペースで増やしていることが円売りの主因になっています。
日本の国際競争力が低下しているから円安になっているという意見を多く見るようになりました。確かに貿易収支は00年代前半の年10兆円程度の黒字から、21年以降は年平均で10兆円程度の赤字に変化しました。しかしお金はいつか使うために稼ぐものです。貿易黒字が消滅するのは自然です。上で見てきたように円安の主因はあくまで投資フローの問題です。サービスや資本の収支を含めた経常収支が年間20兆円を超える黒字である以上、日本の通貨の信用を心配する理由はありません。
財務省に対する誤解
従来、経常収支が黒字のまま通貨が切り下がっていくことは考えにくいと思われてきました。それでは日本政府は意図的に円安を誘導あるいは放置しているのでしょうか。あるいは何か別のメカニズムにより円安をもはや止められないのでしょうか。これに関しては誤解されている部分がいくつかあります。
日本政府が円安に誘導する根拠として「利払いが増えて財政が悪化するので金利を上げられない」「円安の方が輸出が容易で国内経済を刺激できる」と言った点が挙げられていますが、いずれも根拠がありません。
長らく財務省は政府債務のGDP比を気にかけてきました。この指標は日本国債の格付けを下げる論拠となっており、国際金融規制を通じて欧米諸国が日本の金融機関の資金力を抑えるツールになっています。しかし日本政府がこの指標を問題にするのであれば、重要なのは政府債務の実質金利であって名目金利ではありません。現在の3%弱のインフレ率を考慮すると、金利、財政収支、成長率がゼロであれば政府債務GDP比は毎年3%弱減っていく状況であり、むしろ以前より減りやすい状況です。したがって「財政が悪化するので金利を上げられない」には根拠がありません。あるとすれば、財務省が過剰に債務を削減しようとしているという状況だけでしょう。
「円安の方が輸出が容易で国内経済を刺激できる」に関しても、輸出企業が多く入る経団連会長が1ドル150円を超える円安は安すぎると発言しており、政府がこれ以上の円安を誘導して支持が得られるとは思えません。
おそらく財務省には為替レートに関してそこまで明確な意思はなく、「日銀が金利を先に引き上げて景気が悪化し増税できなくなるのを避けたい」「ある程度のインフレを定着させることで年金財政のマクロスライドを継続的に適用して財政を安定させたい」ということを主に考えているでしょう。
日銀に対する誤解
日本銀行に関しても、一般に誤解されている点がいくつかあります。
一点目は「日本銀行は(キャリートレードによる)円安を止めるために利上げを政策手段としている」という誤解です。この誤解は、利上げをしない日本銀行は円安を望んでいるとさらに解釈されています。しかしながら日本銀行の政策目標は物価の安定であり、為替の安定は含まれていません。大きく円安になればインフレ、大きく円高になればデフレが引き起こされるため、間接的には為替は考慮すべき変数ではあるのですがこの点は大幅に過大評価されています。円安に誘導あるいは円安を容認するために日本銀行が低金利を維持していると考えるのは行き過ぎです。これは日本のみならず米国のFRBなどに関する憶測でも多く見られます。一方で、より為替が不安定な純債務国の発展途上国などでは通貨を防衛するために金利を引き上げることは確かに行われています。
二点目は「金融機関への影響が大きく日銀は金利を上げられない(したがってキャリートレードによる円安を防げない)」というものです。確かに、米国では政策金利の急激な引き上げにより、シリコンバレーバンク、シグネチャーバンク、ファースト・リパブリックバンクなどが昨年破綻しました。金利が上がれば、債券価格が下落しそれを保有する銀行が損失を被るからです。しかし日本ではそこまで大きな影響が出ないと信じるに値する理由が3つあります。1つは金利の引き上げ幅がそこまで大きくならないと見込まれることです。米国の短期金利は0%から5.3%近辺まで、30年国債金利は1.2%から5%近辺まで大幅に上がりましたが、日本では短期金利は上がってもせいぜい2%くらいであろうと予測されています、長期金利はすでに0.9%程度に達しており上昇幅はより限られるでしょう。2つ目は、日本の銀行は90年代の金融危機以降リスクマネジメントをかなり真面目にやっているということです。金利上昇に対するヘッジは十分にしており2%程度の金利上昇で大規模行が次々破綻するとは考えられません。3つ目は高金利で急激に大量の預金を集めるような営業をしている金融機関があまり見当たらないことです。急激な預金の増加はリスク管理を難しくし米銀の破綻の遠因となりましたが、日本ではそこまで極端な事は起こらないように思えます。
三点目は「大量に国債を保有する日銀は債務超過になるので金利を上げられない(したがってキャリートレードによる円安を防げない)」というものです。確かに、金利引き上げにより日銀が債務超過になることはあり得ます。日銀は長期間かけて累損を解消する(その間、国庫納付金が減少する)のかも知れませんし、政府が資本注入を行うのかも知れません。いずれにせよ、政府の財政にとって重要なのは政府が実質的に払う金利です。仮に日銀の保有する国債価格が10%下落して、毎年約1%ずつ損失を解消するとしてもインフレ率が1%であれば実質的な政府の負担はゼロです。あくまで金利を引き上げられるかどうかはインフレとの見合いであり、昨今のインフレ下で金利引き上げが不可能という理由にはなりません。
ところで「政府が債務を返済できない」とか「日銀は金利を(上げたくても)上げられない」というようなストーリーは大抵誤解に基づいていますが市場関係者に非常に好まれます。市場関係者は「市場には政府より力がある」と信じることで自尊心を満たすことができるため、そういったバイアスが生まれやすいのでしょう。
最後の点は為替介入に関することです。マスコミでは「政府・日銀が円買い介入を実施した」などと報じられるのであたかも日銀が介入の半分くらいの役割を担っているように聞こえますが、日銀が行なっているのはあくまでオペレーションのみであり、そこに政策的な意図はありません。
以上のように、日本銀行が為替自体を政策目標としていることはありませんし、利上げに制約があるために円安を阻止できないということもありません。
為替介入についての誤解
為替介入に関してもいくつかの誤解があります。
1つの誤解は割とよく解説されていますが、日本政府の為替介入によって円安を止められるというものです。政府は日銀を含めると円を無限に発行できる一方、ドルは外貨準備として約1兆3千億ドル(200兆円弱)しか持っていません。しかもその大半は米国債であり、米国との外交上の理由により自由に売却する事ができません。1年間に介入できる上限は20~30兆円程度と言われ、一日7.5兆ドル(約1160兆円。うちドル円の取引は13.5%程度)の市場規模と比べると大きくありません。したがって、日本政府には円高を止めることはいくらでもできるものの円安を止めることは基本的にできないということです。したがって、政府が介入に消極的だからといって、円安を容認しているとは言えません。
もう一つは誤解は「日本の為替介入は急激な変動を防ぐために行われる」というものです。政府の公式見解がそうなのですから、誤解する人が多いのも当然でしょう。この公式見解は円高に対する介入の場合に限られ、円安に対する介入の場合は全く逆になります。この点について説明しましょう。
まず円高と円安は対称的な事象ではありません。これは円金利がドル金利よりも常に低く、キャリートレードがドル買いという形でしか起こらないからです。キャリートレードは常にドル買いによる円安を引き起こしてきました。したがって円高は、キャリートレードが行われない、すなわち投資家がリスク回避的になるような相場で急激かつパニック的に起こってきました。円高を止める介入は急激な変化とパニックを抑えることによって行われるため「急激な変動を防ぐ」という説明は整合的でした。80年代や90年代前半の為替介入はこの形でした。
一方で過度な円安は、キャリートレードの規模が大きくなって継続的な円安が続いた場合に起こります。キャリートレードはリスク当たり収益を最大化したい投資家によって引き起こされますから、金利を変えずにこれを止めるためには分母であるリスクを大きくして投資家の意思をくじく必要があります。したがって、政府当局の説明とは裏腹に、円安を止めるための介入は常に「急激な変動を引き起こす」ことにより行われてきました。
円安に対する介入は初めから公式見解と矛盾しているために行いにくいという側面があります。こうした矛盾した公式見解がずっと使われているのは、かつて為替介入が主に円高に対するものであったという歴史的経緯に加え、「為替レートは市場によって決められるべきであり、そこに介入して良いのは市場が失敗して混乱した時だけである」という建前があるからなのでしょう。
外貨準備について
為替介入の原資となる外貨準備についても少し補足しておきましょう。
そもそも200兆円弱にものぼる外貨準備は必要なのかという議論があります。外貨準備は通貨危機が起こった時などのためのバッファとして活用されますが、実際には200兆円あっても円安を止められていません。ないよりはマシでしょうが効果の大きさははっきりません。そもそも外貨準備の多くはかつて円が高過ぎた時にドル買いをして作ったものであり、円が安くなっていけば適宜売却してくのが自然に思えます。妥当な外貨準備の水準というのは存在するのでしょうか。諸外国を見ると、人口あたりで日本の5~6倍の外貨準備を持つシンガポール、日本とほぼ同じの韓国、日本の3分の1以下の英国と様々であり、妥当な水準はよく分かりません。
仮に日本政府が外貨準備はもっと少なくて良いと判断した場合、外貨準備の大半を占める米国債の売却を米国が許容するのかというのも大事な論点です。米国が売却に難色を示しているのであれば、大規模円買い介入のような目立つ形で外貨準備を売却することが得策なのかどうかは微妙なところです。一方で粛々と毎年1兆円分の米国債を売却するというような政策を米国が許容するのかどうかもまた微妙であり、そのあたりは米国政府とコンセンサスを作ることが大事だろうと思います。
円安を止める根本的な方法
日銀の金融政策も政府の為替介入も円安を止めるものではないとすれば円安を止める方法にはどのようなものがあるでしょうか。これは上で議論した「為替の需給はどう決まっているか?」で答えは出ています。近年の為替レートは資本フローの影響が圧倒的に大きいのですから、資本フローで円買いが発生するように政策的に操作すれば良いわけです。政府の為替介入や外貨準備については上で述べた通りなので省きます。
企業部門に関してはどうでしょうか。例えば海外に投資した収益を国内に還流させる政策を実行するということが考えられます。米国政府がトランプ政権の時に行ったリパトリ減税がその一つです。これは時限措置として海外で得られた収益を国内に移転する際の法人税を減税するというものです。
個人に関しては、海外よりも国内への投資にインセンティブを与えるような政策が考えられます。国内の株式投資の配当所得や譲渡益に対する減税を行うこともできますし、外貨投資に対する課税を強化するという方法もあります。例えば外国の株式や債券の投資収益を外国株先物と同じように雑所得として課税するような方法も考えられるでしょう。今年はNISAによる外貨投資が活発なため、NISAを国内限定にせよというアイデアをよく見ます。しかし、私は政府が実行するとすればNISA以外の外貨投資への変更なのではと予想しています。理由は2つあります。1つの理由は原則として資本の動きは大きな資本を持つ者によって決まることです。多くの資産価格はこの法則により決まっています。また政府にとって最大のリスクは一握りの大規模な資本家が一気に円を外貨に換える資本逃避が起こることでしょう。もう1つの理由は、金融庁の肝入りで導入したNISAをすぐに変更することは官僚の無謬性の建前と整合が取れないためです。また金融庁は市場寄りの組織であり、NISAを他の政策的な理由から歪めることを好まないでしょう。
政府が円安を止めない本当の理由
上で述べたように円安を止めるために必要なことは官僚たちもおそらく分かっているはずです。そうした政策立案にはある程度の時間がかかるとはいえ、いつまで経っても出てこないのはなぜなのでしょうか?それには為替以外の点で躊躇する理由があるからなのではないかと思います。
日本は400兆円を超える対外純資産を誇っています。そして上で述べた通り直近2年は年35兆円の資本収支が発生しています。これはわが国の諸外国からの年間輸入総額100兆円の3分の1に相当する大きな額です。日本が豊かであり続けるためには、日本の政府、企業、個人がより収益性の高い海外資産に投資し資本収支を維持成長させていく必要があります。日本企業が順調に優良な海外資産を積み上げ、日本の個人が収益性の高い米国株などの資産を持つことは本来望ましいことです。特に外交上の理由で米国債という低収益資産を塩漬けにしている外貨準備に比べると圧倒的に望ましい資産なのです。リパトリ減税や外貨投資への課税によって、海外の優良資産への投資を妨げることは、長期的には日本にとってあまり望ましくない、と日本政府は考えているのではないでしょうか。
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