日英イマージョン教育は本当に優れているのか?
早期英語熱が高まるなか、同じ学校内で(例えば教科毎や学年毎に)日英両方を使って教える日英イマージョン教育が話題になることが多くなった。米国には各地にいくつかの日英イマージョン教育の小学校があるし、日本にも数は少ないが設置されている。一つの学校で二言語ニ文化を学べるとあって一見良いところ取りに見える。しかし、私はこの方式には比較的ネガティブな立場である。
その理由は一言で言うと、両言語、両文化とも中途半端になることである。
まず言語に関して言うと、学校によってカリキュラムには違いがあるものの二言語二文化を通常の学校の密度と時間数で、ネイティブと同様にきちんと学ぶことは不可能である。ここで注意して欲しいのは、両方学ぶのが大変だから不可能だと言っているのではなくて、仕組みとして二言語二文化を高いレベルで学ぶのに向いていないということだ。
言語はほとんどの教科の内容と不可分なので、教科ごとに言語を変えるようなカリキュラムでは言語をネイティブに近いレベルで習得することはできない。国語と社会だけ日本語、数学や理科などその他の教科を英語でやる場合を考えると、日本語で算数や理科のボキャブラリや構文が抜けてしまうし、英語では重要な欧米社会の仕組みや欧米から見た社会の仕組みなどを学ぶことができない。
学年ごとに教科を変えたとしても語彙の連続性が失われるだけでなく、各科目ごとに日英で体系が異なるので教科内容自体もぶつ切りになるため到底きちんと学べない。また、日英のような距離の遠い言語の間では、非公式な会話がどちらの言語で行われるかと言う視点も重要である。仮に英語での授業に関する時間外の会話が日本語で行われるなら二言語を学ぶという目標からは大きく後退する。
文化に関しても理想的な環境とは到底いえない。日本文化が支配的な場所で学ぶ英語圏の文化は、控えめに言ってもバイアスのない英語圏の文化ではない。はっきり言ってしまえば、それは英語圏の文化を学んだことにならない。他国の文化を学ぶ上で最も大切なのは、自国の文化の前提が通用しないことを理解することだからだ。
それではどうやって二言語二分化を学ぶのが理想かといえば、各々の言語と文化を互いの影響のないところで各々学ぶことだ。
個人的な話をすれば、私が子供へのイマージョン教育を選択肢から外したのは、米国現地校+日本語補習校という組み合わせの方が、日本語イマージョンに比べて両方の言語・文化をずっと高いレベルで学べると理解したからだ。もちろんこれは全ての人が選べる環境ではない。それでも、日本在住のケースであれば、インターに入れつつ日本の塾に通わせるとか、何らかの方法で英語圏に何年か留学しつつ日本語での学習を適宜自習などでキャッチアップしていくと言った方法が取れるなら、イマージョンより断然質の高い多言語多文化教育だと言える。
ここまで、批判的な立場から検討してきたが、後半では日英イマージョン教育の実際のメリットを取り上げておきたい。
最大のメリットは、時間的に無理のない環境で二言語を学べるという点だ。一見、日英の二言語二文化教育は日本語と英語のトレードオフに見えるが、実際はそうではない。二倍近い労力(労力とは時間と密度の積であり必ずしも二倍の時間を意味しない)をかければ高いレベルでの二言語二文化の習得は十分に可能だ。これは、ある程度言語能力の高い子にとってはそこまで問題ではない。そこで犠牲になるのは、好きな楽器やスポーツなどの趣味をする時間だったり、何かを試行錯誤する時間だったり、家族や友達などと贅沢に時間を使ってくつろぐことだったりするのだ。そうしたことを犠牲にせずに、日英二言語を学べるという事は日英イマージョン教育のとても大きなメリットだ。
もう一つのメリットは、より深いレベルで文化の融合(フュージョン)を体験できる可能性が高いことだ。ただし、これは日本語を主言語とした子供と英語を主言語とした子供の両方がプログラムに参加している場合に限られる。現状の日英イマージョン教育は、それに興味を持った親たちが子供に受けさせているものだ。必然的に各々の文化に興味を持った人達が集まるので、二言語間、二文化間の交流はより深いレベルで進みやすい。イマージョン教育というと二言語二文化の知識面が注目されがちだが、うまくバランスが取れた場合にはイマージョンよりフュージョンの効果の方がむしろ大きいのではないかと思う。
このポストでは日英イマージョン教育について、この方式が必ずしも理想的とは言えないものの、一方であまり語られることのないメリットもあることを解説した。実際に子供にとって日英イマージョン教育が最適な選択肢であるかどうかは、その親や子の置かれた環境や他に取りうる選択肢によって変わってくる。この論点整理が、その判断の一助となれば幸いである。