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1日の祝杯

 いつも通りの景色がそこには在って、閉店後の同僚との乾杯ほど無意識的な仕草はなくて、ただ少しだけ他と違ったのは、その夜の会話から生まれた後味だった。ー

 オーナーも客もいなくなり、後片付けを済ませた。外灯だけに照らされる店先で、出入り口の階段に無造作に腰掛けると、料理長のイヴァンが二人分のアルコールが入ったグラスを持ってきてくれる。1日を全うした祝杯をあげるんだ。その頃は毎晩といっていいほど、互いにタバコをふかしながら酒を交わしよく話していた。社員として働くレストランの閉店後にルーティーンと化したそんな時間を、自分は僅かながら好んでいた。

 イヴァンはブルックリン訛りの英語を得意とする、ギターと調理と奥さんを愛してやまないスペイン人。休みの日に彼の家に招かれてはギターを教えてもらったり、仕事中に罵声を浴びせ合う喧嘩もした仲だ。ある夜の乾杯の後、初めて彼に自らの父親がステージに立っている映像を見せた。誇らしく、あからさまに格好がいい父の姿だ。じっくりと見て彼はこう言った。

「いいね、格好いいじゃん。なんだか Nina Hagenっぽいね。」 

 少し前の話だ。自分には常連の場所がある。週末を迎える度に気の知れた友人を誘っては飲みに行く、お気に入りのアイリッシュバー。ある日スコッチを片手に友人といつも通りのジョークにまみれた実のない話をしていると、ふと流れていたBGMが気になりバーテンに尋ねた。「あぁ、これはNina Hagen。旧東ドイツ出身の歌手だよ。」「いいね、好きかも。」ー


「あとやっとくよ」
「お、悪いなブラザー!」
「また明日なシェフ」
「TAKE IT EASY BRO!」

 再度カウンターへ入り、窓から入る街灯の一筋を頼りにグラスを洗う。戸締まりを確認し終え、鍵をかけ、すぐ近くに住んでるオーナーの住居のポストに投函する。「さてと。」帰路に着く前に一呼吸、夜空を仰いだ。

なんでもない偶然、よくあるっちゃよくあること。

だけど、あぁ、また不思議なことが起きたなあ。ー



[ 1日の祝杯 ] - 短編小説


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