反芻

時折、自分が海に流した便箋を、どこか遠くにいる人が拾ってくれて、読んだのちに静かな共感の涙を自分のために流してほしい、と思う。


「気づいたら3時ってこと、よくあるよね。」
「あるある」
「お風呂に入る/出るのが面倒臭いってこと、よくあるよね。」
「あるある」
「寝るのが面倒臭いってこと、あるよね。」
「ないない」「寝ればいいじゃん」

(本当に寝るのって面倒臭いのかな。いや、もしかしたら「寝るのが怖い」が正しいのかもしれない。なぜって、寝たら間違いなく明日がやってくるから。眠りについた瞬間、自分は「明日」にいることになるから。まぁ別に恐怖感を抱いているわけではないんだけど。なんで寝るのが怖いんだろう?今日1日が充実していなかったから?寝たら100%何も起こらない一方で寝ていなかったら何かが起こるかもしれないから?今の自分に希望を託しているから?「4時までなら可能性がある。だって今までの自分がそうだった」から?寝ないことって自傷行為じゃない?外傷ではなく脳の傷だよな。ショートスリーパー?うーん、別に辛いんだよな。寝た方が絶対幸せになれるんだよな。だけど、なんか、寝たくないんだよな。)


「幸せってどういう時に感じる?」
「美味しいご飯食べた時じゃない?(☜こういう話できそうって思って尋ねた人、全員がこう答えた。おもしろ)幸せ感じないの?」
「うーん。別に幸せは感じるんだけど、その時間が終わった後の自分は幸せじゃないんだよね。もちろん幸せが永続的なものだとは思わないし、それが相対的なものであるということはわかっているんだけどさ。幸せが終わると自分は不幸になるのかなぁ。なんか、哲学でやったような最高善を求めている人生なのかも。」
「じゃあ時間の流れによって自分が同一だと思っていないということなのかな?幸せを感じている主体と幸せを感じ終わった主体はどちらも君なんじゃない?」
「確かにそうだなぁ。うーん、どうなんだろう。そうなのかもしれない、よくわからないわ。でも、俺の幸せより君の幸せの方が、人生幸せになりそうだよね。」
「そうかな。どちらもそれぞれの価値観だと思うけどね。」

(やっぱり、幸せってその瞬間に享受できる刹那的なものであって、自分を満たし続けるものではないんだろうなぁ。おそらく、幸せは「幸せ」として与えられるものではなく与えられたものを「幸せ」と捉えることができる人に訪れるものなのだろうなぁ。究極的な幸せを求めることは、すなわち、不幸になることなのだろうなぁ。最近の自分は刹那的な生き方をしすぎているあまり、あるいはSNSの世界に没入しすぎているあまり、幸せを享受している時間は幸せだがその時間が終わると幸せではないと強く感じてしまっているのかもしれない。何かのための努力をしている時間は充実しているため幸せだが、刹那的な生き方をしている最中の「幸せではない時間」は本当にイコール無意味だもんな。うーん、とりあえず、駅構内の移動中という環境下でこういう話に付き合ってくれる友達がいたということが、真剣に話を受け止めてくれたor話の内容に興味を持ってくれたor自分という人間に興味を持ってくれたとかそこらへんの証左なように思えて、嬉しいなぁとかここで言っちゃおう。)


「最近何してる?」
「もうマジでカスみたいな生活。遅くに起きて一日中Youtubeとかゲームの生配信とか見て夜遅くに寝るの繰り返し。今日も君に会うまではずっとダラダラしていたからさ、早くこの時間が来ないかなってずっと思ってたよ。幸せ?人と会って話している時に感じるかな。」

「最近何してる?」
「バイト戦士。」

「お、久しぶり。こんな街中で会うなんて。今まで何してたの?」
「いや、今までってかこれからなんだよね。ラウワンかカラオケかメダルか。」
「え、もう23時だよ?じゃあ何時くらいに解散するの?」
「5時くらいかな。」
「えー、すごいね。どういう生活周期なのさ。」
「5時に解散して、寝て、バイトして。たまに飲んだりね。」
「自分そんな生活したことないなぁ。一度くらいはそういう生活も送った方がいいのかなとか思うんよね。」
「えーやめときな。やらない方がいいよこんな生活。」
「なんかさ、みんなって思った以上に虚しさを抱えて生きているんだね。そういうの聞くと安心するわ。」
「えー!分かる笑 Instagramとかそれぞれの1日が顕れているだけなんだよね実際!え、東大生と同じ感情共有できちゃった嬉し笑。」

(幸せ充実!みたいな人ってあんまりいないんだな。「あれいいなぁ」と思えるような生活や自分が実現してみたい生活を送っている人も、結局のところ何らかの悲しみを抱えて生きているんだな。そういう感情を共有した時、嬉しくなるのはどうしてだろう。翻って、僕は自分の日常や生活、人生に何を求めているのだろう。自分が実現できていない生、そのインスピレーションは他人の生活や自分の理想から得られるもの、に焦りを覚えているのだろうか。自分の生き方に自信が持てないから他人と比較し焦りや安堵を繰り返しているのか?足るを知ることがやっぱり大事なのか。相対的な充実ではなく絶対的な充実が得られたらいいよな。あぁ、「自分の中に豊かさが見つけられるといいね。」って去年思ってたなぁ。あれ、でも、豊かさを自分の中に確立できるという状況に置かれていることがそもそも恵まれている環境にあるということであり、それを普遍的な信念とするのは自分の視野が狭いと思ってステメから消したことがあったな、、、。でも、自分の精神内における豊かさって主観的なものだからどのような状況においても確立できるものなのかも。じゃあ、恵まれている環境にある自分がそれを普遍的な信念として携えるのは傲慢だと思ったことが傲慢だったのかもな。)


「考えることが好きなんだね。」「どうしてそんなに考えるようになったの?」
「うーん、わからないなぁ。でも、確かによく考えるのかも。」

(確かに、自分は会話を反芻したりぐるぐると考えたりすることは多いのかもしれない。一度Googleで調べてみよっと。)


あらあらかしこ




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