“Le Petit Prince”

あまりにも苦しくて、自分を責める矢印が飛んでこない世界の中で、救いを求めて手当たり次第に貪っては、落胆して、生きる資格が及ぶ範囲がより狭くなった明日が近づくのを嫌う。

ものすごく外向きな爆発力が、だけど、あともう少しのところで出せなくて、それを人は、少なくとも自分は、やさしさって呼んでいたような気がするんだけど、それは外から見たら0で、結局のところ0で、自分にとっては足し算として蓄積されるんじゃなくて染み込んでいくもので、重くなっちゃうものなんだけど、それを繰り返していくことは、救われる道を閉ざしていくということで、だけどもみんな同じってみんな言っているんだから、それは自分だなって思って溜め込んじゃって、また濃度は上がっていく。

自分を話すことは、簡単ではないけど、時間をかければできることで、だったら救われるか否かは聞き手によって変わってくると言えるでしょ、並んだ顔写真【被救済可能性アリ】一覧に、ばつ印をつけていくことが大人になるということなら、先は、見えない。けど、そうじゃない時間の経過の仕方を、知らない。

この世界は複層的なもので、そこには単純な上下関係なんてないんだけど、みんなどこかの層に立って世界を見ていて、そこを水平に歩いているから、自分の立っている寂寞とした層を共に歩く道連れが欲しくなる。
一緒に死んでほしいんじゃなくて、一緒に生きてほしいってことなんだけど。

悲しさを生み出す原因が、過去とか頭の中にあるんじゃなくて現実に存在しているのなら、他人と会ったり別のことをやることは、気休めにしかならないってわかっている。結局は、立ち向かう強さ、闘う強さ、乗り越える強さが必要なのもわかっている。だけど、誰も自分を知らないから、それは孤独な闘いなんだ。この闘いを乗り越えたら、きっと、幸せな世界が待っているんだ。

「どうするべきだったか」が常に完璧にわかってしまうから、その乖離が自分を苦しめ続ける。

自分の欠乏している部分に視線を固定させながら「死にたい」と言いながら生き続ける人生よりも、もっと、純粋な憧れに貫かれた人生を生きたいし、生きてほしい。

僕にはその努力や苦悩を理解してほしいように理解できないだろうし、共感してほしいように共感できないだろうし、泣いてほしいように泣くことはできないと思う。
だけど、その努力や苦悩が、いつか報われてほしいなって、心から思う。 

どれだけ大きな失敗をしたとしても、どれだけ迷惑をかけたとしても、どれだけ「悪いことをしたな」と思ったとしても、そんなことで嫌いになったり関係を切ったりしない。

他人が幸せであることに対して喜びを表現することは簡単だけれど、心から喜びの感情を湧き起こすことはとても難しい。
自分の世界に何にも影響をもたらさないから、他人事だから、喜べるんだ。
その他人が自分にとってとても大切な人であるのなら、その幸せの過程に自分が介在していないことに、耐えられないのかもしれない。
だけどそれを踏まえても、幸せになってほしいと思う。

幸せになってほしすぎる!



「あなたは?」
瞬間的に圧砕。
夢。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?