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旧約聖書に見る教会(エクレシア)の型その② 幕屋

はじめに

本題の幕屋について触れる前に、少し考えてみたいことがあります。

みなさんは、「教会」というと、何を思い浮かべるでしょうか?やはり、屋根に十字架が立っている建物でしょうか?

これは厳密にいうと、「教会」ではなく、「教会堂」です。

新約聖書においては、ユダヤ教の会堂は登場しますが、実はキリスト教の会堂なるものは一つも登場していません。当時のクリスチャンは、家や公共の広場などで集まったようです。あるいは、洞窟のようなところで集まったという記録もあります。

また、キリストは、公生涯において「私のために教会堂を建てなさい」と命じたことは実は一度もないのです。

4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となって制度化されてから、「教会堂」が重要になってきたものと思われます。宗教的な建物は、世俗の権力と密接な関係を持つことが多いのです。

また、日本語で「教会」と訳されたギリシア語の原語は、「エクレシア(ἐκκλησία)」ですが、「人々の集い」の意味から転じ、「神の呼びかけで人が集まる」という意味をもっています。ですので、建物のことを指し示しているわけではありません。エクレシアは、あくまでも「人々の集い」なのです。

「教会」という訳語が本当に適訳であったかという議論もあります。本来は、「教える会」ではなく、「集められた会衆」なのです。

ただ、「教会」という訳語が一般に広まっているので、本稿では便宜上、この訳語を使うことにしています。

僕は決してここで教会堂という建物が不要だと言おうとしているのではありません。あっても良いし、なくても良いと思います。ただ、本当に大事なことは、建物を建てることではなく、「わたしたちのうちに「キリストが形造られる」(ガラテヤ4 :19)ことではないでしょうか。

さて、一方で旧約聖書に目を転じると、「神殿」という建物が建てられたことが明確に記述されています。そして、これらの建造物は、非常に重要な意味を持っているのです。旧約聖書には、モーセの幕屋、ソロモンの神殿、第2神殿の3つが記述されたいます。

旧約時代においては、物理的な、目に見える建造物が必要だったのです。これらの建物には、どのような意味があったのでしょうか?

モーセの幕屋

ヤコブの一族がエジプトに避難してからおよそ400年後、モーセは、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出しました。

アラビア半島のシナイ山に差し掛かった時、モーセは、一人でシナイ山の頂上に登り、四十日四十夜、神と直接語り合うことになるのです。

この語り合いの中で、モーセは、神から直接「幕屋」を建てないさいという命令を受けたのです。そして、直々に詳細な設計をもらいます。

その様子が、出エジプト記25章から30章に書かれてあります。

この幕屋とは、テント式の神殿です。天幕、会見の天幕、あかしの幕屋、聖所などとも呼ばれます。英語では、Tabernacleです。

この幕屋も、前回見たヤコブのベテルのように、神と人が出会う場でした。しかし、ベテルよりも厳密に建物の詳細、器具、儀式の手順などが決められました。これらは決して無味乾燥な決まり事ではなく、あらゆる詳細が「型」となってキリストを指し示しているのです。

つまり、幕屋の存在自体が、後に現れるキリスト、そしてキリストの体である教会(エクレシア)を予表しているのです。これは驚くべきことです。

神は、「型」を通して、ご自身が行われることを予めイスラエルの民に示そうとしたのです。

幕屋の構造

幕屋の構造の枠となる長さと幅は、それぞれ100キュビト、50キュビトで、その比率は2:1です。メートルに換算すると、長さ約50m、幅25mとみなすことができます。テニスコート2面分超くらいと考えれば良いのではないでしょうか。それほど大きくありません。

庭、聖所、至聖所の3重構造になっていました。

以下の図がとてもわかりやすかったので、引用させていただきました。

引用元:聖書の紙芝居 https://jollyboy.sakura.ne.jp/kmold30.htm

外張りのテントの内側に「庭」があり、庭の中に祭壇と箱型の建物があるのがわかります。この建物は、内部が「聖所」と「至聖所」とに分かれていました。

引用元:聖書の紙芝居 https://jollyboy.sakura.ne.jp/kmold30.htm

この幕屋の3重構造は、実は人の構造をも表していると言われています。

つまり、人は、「肉体」、「魂」、「霊」の3つから構成されているとされています。そして、そのうち「霊」が人の最も根幹的な部分であるといえるのではないでしょうか。

多くの現代人は、この「霊」が死んだ状態にあり、もっぱら「肉体」と「魂」の満足を追い求めているといえるかもしれません。

しかし、最もコアな部分である「霊」が死んでしまい、神との交わりがもてない状態でこれらの欲求を満たして続けても、深い虚無感が残るだけではないでしょうか。

幕屋において最も最もコアな部分である至聖所には、「契約の箱」が安置されていました。この契約の箱がとても大事なのです。

契約の箱

契約の箱については、インディージョーンズの映画で知った方も多いのではないでしょうか。僕も小学校5年生頃に初めて「レイダーズ 失われたアーク」を見て、なんだかアーク(契約の箱)ってすごいんだなという印象をもちました。

契約の箱は、アカシヤ材で作られ、長さ2キュビット半(約95センチ)、幅1キュビット半(約54センチ)、高さ1キュビット半(約54センチ)です。そして、内外ともに純金で覆われていました。

これは、キリストの人性と神性を表しています。アカシア材は、荒野に育つシュティムという木からとった材木ですが、旧約聖書では、木は人を表します。そして周りの純金はキリストの神性を表しているのです。

箱の4隅には、金の環が一つずつ付けられています。これらの環に入れる棒もアカシア材で造られ、金で覆われています。

契約の箱は、至聖所に安置された後も棒が取り外されることがありませんでした。それは、最終的な目的地に辿り着いていないことを示しています。

イエスさまも地上の生涯において、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。 だが、人の子には枕する所もない。 」(ルカ9章58節)と言われました。これは、この地上の生涯においては、寄留者であることを示しています。また、キリストに従う者も、師のように寄留者としての生涯を歩むことになります。

契約の箱の中には、十戒が書かれた2枚の板が収められました。これには、キリストが神の律法に完全に従われたことを象徴しています。聖書には、神の律法に完全に従順に従うことができるのは、イエス・キリストだけであると書いてあります。人間には不可能なことです。

また、契約の箱と閉じる贖いの蓋の上には、天使のような存在であるケルビムが向き合っています。

ケルビムは創世記でも登場します。アダムとエバが罪を犯したとき、彼がまたいのちの木から木の実をとって食べて永遠に生きることがないように、神はケルビムと回る炎の剣を置いて、アダムとエバが近寄れないようにしました。

このように、ケルビムは、神の裁きの使者なのです。その伸ばされた翼は、神のおきてが破られたときに、すぐに裁きを下す備えがあることを象徴しているだけでなく、神の義は絶対にまっとうされなければならないことを示しています。

しかし、年の一度、大祭司がこの至聖所に入り、2つケルビムが座している贖いの蓋の上に、犠牲にささげられた動物の血が注がれるのです。これにより、神の要求が満たされたのです。

これは、キリストの血が流されることにより、神の要求が満たされ、私たちに救いが及んだのです。使徒パウロが書いたエペソ人への手紙には、次のように書いています。

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

さて、この記事ではとても幕屋のことは語りつくせないのですが、あとは聖所と至聖所を仕切る幕、それから、幕屋全体を取り囲んでいる幕についてだけ説明します。

聖所と至聖所を仕切る幕

幕屋の最もコアな部分である至聖所には、大祭司が一年に一度しか入れませんでした。他の祭司やイスラエルの民は、決して至聖所に入り、契約の箱を見ることができません。

この幕には、何と先ほど説明したケルビムの形が織り込まれていました。幕が至聖所を守っていることも表しています。

撚糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の糸で織られ、巧みな細工でケルビムの形が織り出されています。

「幕屋」という本を著したA・J・ポロックによると、撚糸で織った亜麻布は、キリストの聖い人性を表しているとのことです。聖書では、亜麻布が清さを示す場合があります。また、磔刑後のキリストの遺体は亜麻布で包まれています。

青は、キリストの人性のうち天に属する性質を示しているとのことです。青は空、すなわち、天の色でもあります。

紫は、王の王、主の主としてのキリストの栄光を表しているとのことです。紫という色は、日本だけではなく、洋の東西を問わず高貴な色とされていました。

緋色は、王の色を表しているとのことです。マタイの福音書では、イスラエルの王としてのキリストを表しており、イエスさまが十字架に付けられる前、ローマの兵隊たちは、イエスさまの着物を脱がせて、緋色の上着を着せました。そして、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせ、イエスの前に日ざまついてからかって言いました。「ユダヤ人の王様、ばんざい」と。

このように、聖所と至聖所を仕切る幕のあらゆる詳細がキリストを示しているのです。

そして、新約聖書を読むと、イエスさまが十字架上で大声で叫んで息を引き取られた後、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書いてあります。

これは、キリストの十字架と復活により、私たちはケルビムが織り込まれた幕に阻まれることなく、神に近づくことができるようになったことを象徴しているです。

幕屋を取り囲む幕

最後に、幕屋を取り囲んだ幕、すなわち、幕屋を完全に外から見たときに現れる幕について説明します。

この幕は、じゅごんの皮で作られたと書いてあります。このじょごんの皮については多くの解釈がされてきましたが、粗末ながらも長持ちのする皮であったようです。すなわち、テントの外側としては最適な皮です。

特に風雨にさらされる屋外では最適な素材であったことでしょう。

しかし、このじゅごんの皮から作られた幕は、外から見ると、何も美観を想起させるものはなく、ただの質素な幕でした。

この幕屋は、驚くことに中に行けば行くほど、豪華になっていきます。そして最も荘厳なところは、大祭司以外の目に触れることはなかったのです。

これは何を意味しているでしょうか。僕は、この地上におけるキリストの姿を表していると思います。

イザヤ書53章2〜3節にはこう書いてあります。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

世界の宗教的建築物を見ると、人はとかく荘厳で見栄えの良い建物を建てたがるように見えます。しかし、神がモーセに命じた設計は、そうした人間の建てる建築物とは根本的に異なっていました。

別に見ばえを良くする必要はないのです。キリストが私たちの中心にさえいれば、聖所に契約の箱が安置にされたように、人目に触れないところが黄金に輝くのです。

幕屋はそのことを教えてくれるのではないでしょうか。

さいごに

本稿では、幕屋の詳細についてはとても書き切れませんでした。ほんのさわりだけを紹介しています。まだまだ、各部分の寸法、器具、祭司の装束、祭壇、捧げものなど、たくさん論点があるのです。興味ある方は、ぜひ以下に掲げた参考文献に目を通してみてください。

旧約聖書では、建造物が来るべき本体を「影」として指し示しますが、新約時代においては、聖徒の集まりにこそ主が共におられることが明らかになりました。僕は、ここに、神の深い意図を感じるのです。

次回は、ソロモンの神殿を解説してみたいと思います。

参考元:

  • 聖書の紙芝居 幕屋づくりと礼拝

  • A・J・ポロック著,幕屋 神の会見の天幕,伝道出版社

  • 牧師の書斎 モーセの幕屋の瞑想




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