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さよなら、マルボロマン


 カウボーイ達が絶滅したのは平原に柵が出来たからだと言われている。

 今マルボロマンは便所で泣いていた。身を揉むようにして激しく泣いた。声が聞こえるほど近くには誰もいなかったから別にその必要はなかったが、嗚咽が洩れないように右手の親指の付け根を強く噛んだ。あんまり強く噛んだので、赤い血がたらたらと流れ出した。血は唾液と混ざり鼻水と混ざり涙と混ざった。血は腕を伝い肘へ流れた。シャツの袖を汚さないように二の腕まで捲りあげた。これほどの。ああ。神よ。俺は。俺達は。ひどい傷になることだろう。化膿させないためには慎重な消毒と馬の脂の軟膏と抗生物質が必要になる筈だが、彼はあとでそれらの治療を全部自分で黙ってやるだろう。本当は縫う必要があったかもしれないがそれは差し当たり別にどうでもよかっただろう。

 タフで厳しく、強い男だった。いや何も過去形で言うことはない。タフで厳しく、強い男だ。今でもたぶん。そして優しい。厳しいが優しかった。鉄のような男。それが衆目の一致するところだ。他人にヤワなところを見せるくらいなら、敵に弱みを握られるくらいなら一切の躊躇なく死を選んだだろう。誰かに助けてくれと言うくらいならその前に舌を噛み切ったろう。そういう男に有り勝ちなように、彼もまた寡黙で、無駄口は叩かなかった。決して弱音を吐かず愚痴を言わずへこたれず、銃の扱いや馬の乗り方でも抜きん出ていた。物事がうまく行かないような時はもう次のプランを練っているように思えた。男達で焚き火を囲むような折には誰もが、特に若輩のカウボーイ達は彼の話にじっと耳を傾けた。馬の世話をやり牛を追い、あらゆるものを工夫して修理をし、陽のあるうちはブリキのカップでコーヒーやミルクを飲んで、日が暮れると同じカップでバーボンを少しずつゆっくりと飲んだ。小川には瑠璃色のカワセミが矢のような速さで飛び交い、平原ではジャッカルが風の中に何か兆候サインを嗅ぎ取ろうと鼻をひくつかせている。男達は先を争うようにバタバタと死んでいく。戦争で。事故で。病気で。酒場でのナイフを使ったつまらない喧嘩で。そのような世界。そのような世界。神の世界で、神に向かって俺の想いはこれこれこうで、これについては納得がいかないなどと神に話しかけることはできるのか? 聞いてもらえるのか? 抗議することは可能なのか? 運命に抗うなどと言うが運命は抵抗をそもそもの最初から予見して包摂している、そうだろう? いったい俺達は誰なんだ? あんたは誰なんだ? 俺達は何処から来て、何処へ行くんだ? マルボロマン。タフで厳しく、優しく強い男だった。だから彼が人知れず泣ける場所といえば、便所くらいしかなかった。



 いい奴だったよ。見上げた男だった、とジミー・ジャズは話した。灌木の折枝を使って燃える焚き火の炭を突付いた。滅多に笑わないから、たまににやって口の端を持ち上げて笑うのを見るとこちらまで嬉しくなったもんだ。口に出して言わなくても、誰もが奴に憧れて、喋り方から歩き方まで奴の真似をしたよ。ジミーはグラスに入ったウイスキーを燃える炎に透かし見て、グラスを揺らした。橙色の光が琥珀色の液体とどう混ざるのかひとつ見てみようじゃないか、という風に。ジミー・ジャズ。こちらはもっと世故に長けた、世慣れた男だった。もうとっくの昔に世界や神とはある種の和解をして妥協した男だった。一方的な示談に持ち込んだのだ。放っといてくれ、俺に構わないでくれ、というのがそのやり方だった。その代わり俺もあんたの問題には首を突っ込まない。それは一種の紳士協定だったが協定が受け容れられたのかどうかはわからない。誰にわかるだろう? これからも永遠にわかることはないだろう。だがジミーは気にしなかった。人の強さとは何なのか? 人は誰でも強くありたいと願う。だが強いとはどういうことなのか予め知っておかなければそもそも願うものになれない道理じゃないか、そうだろう? どういうことを強いと呼ぶのか。それを知るためにはどうやら長い時間がかかりそうだが仮にそれを知ることができたとしてその頃には強くなるための時間が残されているかどうか。そのことについてどう思うね? ジミーの話を聞いていた男達の一人が焚き火を離れて影のように立ち平原の先へ目を遣った。8マイルか、10マイル先。やはり小さく篝火が見える。撃ち合いは明日、でなければ明後日には起こるだろう。

 いったいどこへ行っちまったんだい、マルボロマン、ジミー・ジャズは考えた。枝木の燃える先で煙草に火をつけた。元気で無事にやっているのか。もし可能なら便りが欲しいな。いつの日かまたあんたに会えると嬉しいが。あんたがいなくなってからこっち、タフネスも優しさもとんと見かけなくなっちまったよ。



 タフで厳しく、強く優しい男だった。
だから便所で泣くしかなかったのだ。

だから便所で泣いていたのだ。