「所属するコミュニティ」から「接続するコミュニティ」へ
コミュニティについていろいろ考えています。
拙著「超ソロ社会」にも書いたように、地域・家族・職場といったかつての安心・安定した共同体がどんどん消滅しつつあります。社会学者バウマンやベックが予言した通り、「個人化する社会」が間近に迫りつつあるわけです。
では、そんな「個人化する社会」にはコミュニティというものは存在しなくなるのか?と言えば、そんなことはないのです。
コミュニティがなくなるのではなく、コミュニティのあり方が変わる。
かつては家族、地域、職場といった確固たるコミュニティがよかったのは、そこに所属している人々は、「自分はこのコミュニティの一員だ」という安心感が得られたからです。だからこそ「ウチとソト」の線を明確に引いていました。もちろん、そうした安心感と同時に不自由さはあったかもしれませんが…。
コミュニティとは安心でした。
ところが、現在では所属が安心を約束してくれるものではなくなっています。地域のコミュニティはほぼ消滅していますし、職場のコミュニティもかつての安心は提供してくれません。
昭和的な大家族形態も少なくなり、そもそも結婚をせず家族のコミュニティを持つ人も減っています。
しかし世の中から、コミュニティがなくなったわけではありません。最近では、職場以外の、趣味や自己研鑽でつながるコミュニティが勃興しています。繰り返しますが、コミュニティ自体がなくなるのではなく、コミュニティのあり方が変わるのです。
「所属するコミュニティ」から「接続するコミュニティ」へ。
かつての家族、地域、職場は「所属するコミュニティ」でした。しかしこれからは、枠の中に自分を置いて群の一員になるのではなく、個人と個人とがさまざまな形でゆるやかに接続する形になっていくと思います。
趣味のコミュニティなら、趣味を行うときだけそのメンバーと接続する。自己研鑽や学びなら、そういうときだけ協力し合う。場面場面に応じて、柔軟に接続するコミュニティを組み替えていくイメージです。
コミュニティとは、ニューロンネットワークにおけるシナプスのような役割を果たします。その場所が重要なのではなく、あくまで人と接続するための手段としての役割が求められるんです。
そうすると、一つのコミュニティが仮になくなっても、自分自身を見失うことはありません。むしろ時間が経つにつれて、接続するコミュニティが全て入れ替わることもあるでしょう。所属に依存しない分、一人ひとりに個人としての精神的自立が生まれます。
接続するコミュニティでは、所属による安心は目的とはなりません。どちらかというと、スポーツの「練習場」のような、自己鍛錬の場に近いです。
しかし、こうしたコミュニティでも活動によって、メンバーからの承認や達成感を得ることができる。それが自己肯定感や自己の社会的役割の確認につながります。オンラインサロンなどで、メンバーが自主的に動くのはそのためです。
所属することでの安心の代わりに、今後は接続するコミュニティ単位での「自己の社会的役割の多重化」が求められていくはずです。
僕は常々「ソロで生きる力」とは「人とつながる力」だと言い続けていますが、「人とつながる力」とは「友達を作る力」ではありません。
友達である必要はないのです。むしろ、友達であるがゆえに、表面上の取り繕ったことしか言い合えない関係よりも、全く利害関係のない赤の他人とのつながりが結果として自分にメリットをもたらす場合も多いのです。
米国の社会学者マーク・グラノヴェッターは「弱い紐帯の強さ」を提唱しています。有益で新規性の高い情報や刺激は、いつも一緒の強い絆の間柄より、いつものメンバーとは違う弱いつながりの人たちのほうだという考え方です。
これからは、これまでのどの時代よりも、人が「弱い紐帯」をたくさん持つ必要がでてきます。その中で、常に複数のコミュニティに接続しながら、新しい刺激を得て、自分をアップデートする動き方が主流になるでしょう。
自分をアップデートする=自分を変えるということではありません。
むしろ、新しい自分を生み出していくということ。つまり自己の多重化であり、自分の中の多様性を生みだしていくということです。
人とつながるということは、それだけ、その人によってあなたの中の多様性が活性化されます。それは、人とのつながりによって自分の中に新しい自分が生まれるということです。
「人とつながるという外的接続の拡充こそが、自己の内面の多様性を育む」については、こちらの記事に詳しく書きました。
「独身こそ身につけるべき」とか個人的にやや不本意なタイトルつけられていますが、あまり気にしないでください(記事のタイトルは著者に権限がないので)。独身かどうかは関係ありません。すべての人間にとって必要なのは、この自分の中の多様性を意識するということです。
「超ソロ社会」にも書きましたが、これは芥川賞作家平野啓一郎さんの提唱する「分人」という考え方とも通じます。
コミュニティも同じです。
唯一の拠り所としてコミュニティがひとつだけという考え方はむしろ危険。
自分の外に居場所としてのアウトサイドコミュニティを置くとともに、人と接続して自分の内面に拠り所としての「多様な自分の世界」をたくさん生みだすというインサイドコミュニティを同時に作る、そんな考え方を僕は提唱しています。
コミュニティとは、自分の外にあるものだけではないんです。自分の内側にもコミュニティは作られる。
「どこにも所属していない」「みんなと一緒にいない」という状態を極度に不安がる必要はありません。いつも一緒にいなくても、いざとなったらあの人と接続できる。そう思えて安心できることこそが精神的な自立です。
孤独と孤立とは違います。
たとえ状態としては一人で孤独であったとしても、誰かと共有できる何かがあると感じれば、心理的孤立は感じないのです。逆にいえば、たとえ集団の中に所属していても、誰とも何も共有できていないのなら、それが孤立の苦しみを産むのです。
ソロであるとか、一人暮らしであるとか、単独で仕事をしているとか、そういう状態が孤立とは関係ありません。むしろ、「所属さえしていれば」「みんなと一緒にいれば」という「状態に支配されてしまう思考」こそが、心理的孤立という深い闇への助走なのです。
人とつながり、自分の中に拠り所となる「多様な自分」を生み出し、自己の社会的役割の多重化を感じること。それこそが安心につながるのではないでしょうか。
※本稿は、2018/5/27にNewsPicksに寄稿した内容を一部修正加筆してお送りしました。
自己の多重化をふまえて家族の在り方について書いた最新の記事がこちらです。あわせてお読みください。
「接続するコミュニティ」について詳しく書いた本がこちらです。この記事にご興味・共感された方はぜひこちらもお読みください。