そのままにしている文
noteは「書きかけの記事があります。投稿しませんか?」とお知らせメールをくれる。下書きで封印してしまう記事の整頓もしようと思えるので、書いても投稿しない記事を再び見直すクセも必要だと感じるようになりました。そういうのがあっちこっちに置いてきてある状態でした。
あとで読み直すと、なんで投稿を迷ったのかわからないただの文が並んでいたりするのですが、書いているときは嫌になるきもちを確かに持っていて、キリのいいところ、もしくは限界だと思うところまで記してnoteからも退出するように閉じてしまいます。
noteは、丁寧な労いやポジティブな言葉で去ろうとするわたしに気遣いを表示してくれることに、自分のなげやりなきもちを後悔の手前くらいにして気づかせてくれていると思うことが多いです。
わたしは、言葉がひとつ燃えるだけで炎上は起きると捉えています。それぐらい相変わらずおそろしいものであると思います。炎上の正体は、何でしょうね。
また、ひとつ新しいSNSが爆誕したようです。検索のトレンドのようなところを何気なく見たとき、その名称を知りました。mixi2は、他SNSなどに貼られる人数無制限の招待コードによって入れるそうで、やさしい招待制に感じましたが、「招待制SNS」は元々そういう絞り方があったとしても、始めるために大切なことを含めてそのような入り口になっているのかなと思ったことがあります。
ダメなことをやったら怒れる間柄、きちんとそれはやってはいけないことだと言える人間関係つくりは、いつぶっ壊れたんだろうと考えて、めんどくせーが勝った時期があったなと思いました。
わたしが重ね重ね回想するのは、20年以上前。
そして、このめんどくせーはいつもめちゃくちゃ薄めながら表していた内容でした。「そういうの、わからないんだよ!?」と度々同じ学校に通う同級生に叫ぶように言われて、学生の頃のワカラナイというものは、たしかに何年もかけてナンデワカルンダロウに変わったのです。あの頃はなかったものが身近なSNSやインターネットだけど、わかる・わからないというふたつの選択肢は無限に広がっていきますよね。
やっと、最近しんみりして泣くようになって、ふりかえってしんどくなっても、わざわざ言葉にしなくていい時間が訪れることで、ふりかえる内容にも移り変わりがあると気づけるようになりました。
きもちを楽にして過ごせる日は、いい1日だと思います。
ココから下は去年の下書き保存記事から。
【(今年は)年越しまでにやっておきたいコトが見つかった。緩やかにスタートラインに向かいたくなった。ゆるっとした年越しをひとりの人間のメンタルによるちいさな満足感で過ごせたら、(2023年は)それでおわります。
むずかしいことを悩みながら頭を抱えるように唸っても、足らなくて怒られちゃうんだから。考えないほうがいいのか、それとも自分なりにがんばる方法や方向をさがすのか。わたしは、自分の立っている場所や地盤も考えてモノを言いなさいと、こどもの頃に学校でティーチャーに言われ、その後の学生時代にも時折思い出す大切なことだと思って、そのときの自分自身の感情と共に丁寧に扱っているものの、ナニソレ感は残ってしまうようです。それがわたしもこどもの頃にしかめっ面をした根源のように思います。
お盆の上にのせて運ぶような、鬼のオコトバ🤔💭】
再び、いまの文で感想も書く。
1年前には、少しちがう考えごとだったから、1年前のわたしが見え隠れする文だと思います。西暦が出てきますが、括弧で閉じて、今年のではないと目印をつけるように意識しました。
考え事を減らす努力は、効果が出てきているように感じます。