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東京“パリピ”30年史②〜ジュリアナ伝説・女子高生/コギャルの時代(1991-2000)

このコンテンツは、2016年末にWebマガジン「TOKYOWISE」に掲載されたものに一部加筆をしました。「東京ポップカルチャー研究家」でもある中野充浩が編集部のインタビューに答えながら、30年間の時代と世代の流れを“パリピ”を軸に振り返っていく全3回。

「過去の流れや影響を知らずして東京のパーティ文化は語れない」ということで、前回は時代そのものがメガパーティと化した伝説のバブル時代(1986〜1991年)を取り上げましたが、今回は90年代に突入です!! 引き続き、各時代のパーティ事情に詳しい中野充浩氏に話を聞きました。


SCENE② 1991〜1994年
ジュリアナ東京で3年余り続いた最後のパーティ

──バブルが崩壊して“宴の時代”がお開きになるわけですが、ジュリアナが登場するのはこの時期ですか?

そうです。1991年5月に芝浦にオープンしました。いまだにバブルの象徴として取り上げるメディアが多いですが、それは間違いです。正確にはジュリアナは“バブルの幻影”なんです。

1994年8月のクローズまで3年余り続いたこの“最後のパーティ”には、延べ200万以上もの人々が参加しました。ナイトスポットが次々と廃れていく中、ここだけはちょっと異常な盛り上がりを見せましたね。最終日など、一つの時代の終わりをあれほど実感した夜はなかったです。

──ジュリアナと言えば、羽根扇子を振りながらお立ち台で踊り狂うボディコンのイケイケギャルっいうイメージが強いです。あれで通勤してたんですか!?

あれだけ過激なコスチュームはどこかで着替えてからですよ(笑)。バブル初期のボディコンはコンサバ感もあって通勤にも使える恋の成功服でしたが、この時代は完全に夜遊び用の戦闘服です。

今から思えば、その後のコスプレや仮装につながるノリ。「昼間は普通のOLやってます」みたいな人多かったですから。ちなみに1993年夏に、東京ドームに5万人を集めて「avex rave」が開催されたのはご存知ですか?

──あのエイベックスが? 何ですかそれは!?

あの頃はまだダンスミュージック専門レーベルだったんです。ところがこのメガパーティに3億円もの費用を投じて、2メートル以上ある“スーパーお立ち台”を設置して話題になった。

このように「90年代は着実に進んでいながらも、バブル80年代の幻から逃れられない」という心地良い退廃を残した1991〜1994年は、「奇妙でロマンチックな“幻影の90年代”」として、東京の歴史の中に永遠に記憶されるべきだと思います。

SCENE③ 1994〜1998年
毎日がパーティだった女子高生とコギャルの時代

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──本当の90年代はここから始まるんですね。

そう確信しています。というのも“高校生の半分”に大衆の視線がこれほど集まったのは、後にも先にもこの時だけです。

若者社会の主導権がすべて“女子高生”に握られたのは、世の中がバブルのツケを支払ってる間、彼女たちだけは確実に進んでいた新しい時代と向き合って、自分たちの世界観を凄まじい勢いで東京に描き始めていた点に尽きます。

1991〜92年からその兆しは感じていましたが、特に1994年以降は約束の地=渋谷をかっ歩する女子高生にとって、毎日がパーティのような風景だったに違いありません。まぎれもなく世界に通用する東京ポップカルチャーの到達点でした。

──確かにこれを超えるインパクトのある現象は2000年代以降出ていない気がします。

「ウチらは女子高生」という強い意識のもと、3年間期間限定のプレミアのような高校生活の中で、クチコミが魔法のような力を持つのは必然でした。自分たちに“十分な価値”があることを知っていたんです。彼女たち特有の“5大感覚”の駆使もありました。

──“5大感覚”とは一体何ですか?

身近な友達をお手本にする“ネイバーフッド感覚”。欧米文化を同時進行で捉える“リアルタイム感覚”。サブカルチャーを取り込んでいく“ボーダーレス感覚”。気に入ったものを自分たち好みに変える“リミックス感覚”。 美容意識の高い“セルフプロデュース感覚”といったところです。バブル期の若者には持てなかった感覚で、彼女たち以後は当たり前になっていきました。

──彼女たちの琴線に触れるものは世の中にどんどん知れ渡っていきましたね。具体的にはどのようなものがありました?

足元がルーズソックスや厚底ブーツになり、茶髪と細眉に合わせた大人びた“コギャル”ファッション、ミージェーンなどの109ブランドが次第にスタンダード化しました。安室奈美恵や華原朋美などの小室サウンドは、彼女たちの心情を代弁してCDが売れまくりました。

──そうそう! ポケベル、PHS、プリクラ、たまごっち、ソニプラグッズなんかは、すべて女子高生発のパーティアイテムと言えますね!! 使い切りカメラはガーリーフォト・ブームのきっかけにもなりました。

そういう動きを無視できなくなった“友達の友達”が出てるような東京ストリートニュース、Cawaii!、eggといった雑誌の創刊が相次いだのもこの頃です。スーパー高校生や読者モデルブームが起こって、雑誌主催の卒業パーティ(プロム)も恒例行事になりました。

──夜遊びの舞台がディスコからクラブへと変わったのも、90年代半ばになってからですか?

バブル期のクラブカルチャーを除けば、一般的にはその通りだと思います。パーティという観点に戻ると、チームの少年たちが新聞沙汰やトラブルに巻き込まれてギャング化を余儀なくされた後、1998年前後よりギャルやギャル男たちの間で “イベサー”のブームが台頭して、伝統となった学生パーティ文化を引き継ぎます。 “ギャルサー”もこの流れです。

──この時代で他に何か特筆すべきものはありますか?

スノボーやオープンカフェのブーム、渋谷系や裏原は外せないでしょう。フジロックが初開催されて“サマフェス”が定着するのも、現在の美魔女の下地を作ることになる“コマダム”や“シロガネーゼ”などが雑誌で仕掛けられたのも、スターバックスの日本1号店が銀座にできたのも、「路上パーティ」とも言うべき原宿のホコ天が終わったのも、この時代の出来事です。

SCENE④ 1999〜2000年
ネット文化が起業家に侵略された世紀末というパーティ

──コギャルの呼び名が「ギャル」へと移行したのが1999年。“ガングロ・ヤマンバ”とか、まさにコスプレ色の強い次世代の登場です。

109のカリスマ店員が脚光を浴びて、昔コギャルだった世代が“お姉ギャル”になるストーリーも開かれました。小室サウンドの終焉と入れ替わるように、浜崎あゆみや宇多田ヒカルが大ブレイク。

携帯電話にインターネット機能が加わったiモードがサービスを開始したのもこの年です。“ケータイ”がギャルたちのパーティアイテムに組み込まれるのは必至でした。

──絵文字、着メロ、待ち受け、占い、ゲームなどが流行りましたね。翌年には液晶画面のカラー化やカメラ機能も加わっています。

同じ渋谷の街では、別の動きが来たるべき時代のメガパーティを企てていたことにも注目です。

IT革命に可能性を賭けた若き起業家たちが1999年にビットバレー宣言をして、ナスダック・ジャパンと東証マザーズという新興市場の後押しによってネットバブルが沸騰しました。

翌年に六本木ヴェルファーレで「ビットスタイル」という大規模なパーティを開いて、お忍びで参加していた当時の都知事や日銀総裁と祝杯を上げたのがそのピークと言われています。

──サイバースペースに入り込む映画『マトリックス』が公開されたのも奇しくも1999年です! 世紀の変わり目となる大晦日のカウントダウンパーティも盛り上がりました。

90年代を通じて原住民のオタクや理系学生たちが密かに育んでいたネットカルチャーは、“世紀末”とか“ミレニアム”といった言葉が頻繁に飛び交ったこの2年間で、1995年あたりから攻防戦を繰り広げていたベンチャー起業家たちに永遠の侵略を許してしまったのだと思います。

(次回③へ続く)

*Illustration:ハシヅメユウヤ

★1991〜2000年の詳しいことについては、以下のマガジンで連載中。


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