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ターミネーターの目に映るもの

映画「ターミネーター」を初めて観たのは劇場ではなくてTV放映だった。案内役の淀川長治がアーノルド・シュワルツェネッガーの「お尻がとっても綺麗でしたねぇ❤️」と褒めていたような記憶がある。

ここでは映画の内容ではなく、登場するターミネーターのことについて愚にもつかないことを少し述べてみたい。

私がターミネーターに感じた魅力のひとつが、ターミネーターから見た「視界」だった。暗視装置風の映像にコマンドかあるいは何かを識別しているような文字が表示される。高度な情報処理をしていることをこのようにしてヴィジュアルで表現しているわけだ。同様の演出が後に公開された「ロボコップ」などにも見られる。この時代におけるロボットやサイボーグを描く手法の典型例と言えるだろう。

当時の私はそれをリアルでカッコイイものと感じていた。それがおかしいと気付くのは少し後のことだ。

そもそもターミネーターが自身の視界の中で何かを識別できているのであれば、それをわざわざ文字で表示したり、輪郭を強調したりする必要はない。そのような過程を経なければ識別できないということであれば、ターミネーターの視覚的な情報処理は人間よりも遅いと言わざるを得ない。

好意的に解釈すれば、ターミネーターをモニターしている何者か(サイバーダイン社の開発者)にトレーサとして情報処理の過程を明示していると言えなくもない。もちろんジェームズ・キャメロンがそのような設定まで考案していたとは考え難いが。

ターミネーターの視界にわざわざ識別した対象の名称が表示されるのだとすれば、理由はそれを見る人間(観客)がいるからだ。例えば識別した対象が「サラ・コナー」だと分かっていて、それにわざわざ「サラ・コナー」と表示するバカバカしさをターミネーターは自覚しているのだろうか?

表示されるものがコマンド(命令)であったり、計算だったりしても同じことだ。

"ただのカメラワークだよ。追跡する者の視点で撮ってみたかっただけさ"

それだけのことなのかもしれない。

ターミネーターに限らず、ロボットやサイボーグ、AIなどの「内面」は人間の内面同様に本来直接描写することなどできない。

ターミネーターが見ているものを視覚的な情報(映像)として提示しても、それはターミネーターが本当に見ているものではないはずだ。もしターミネーターの見ているものがカメラのライブ映像と変わらないレベル(つまりただの情報)だというのであれば、ターミネーターはかなりの低脳だと見做すことができる。

目を持ち、視覚を備えて何かを見るということはー何かが見えるということはー意味を持つ何かを構成しているということだ。色、形、動き、距離、大きさ、質感などはすべて見ている者が自ら構成してつくりあげているものである。「想像している」と言い換えてもいい。

それが何であるかさらに注目することで、そこに意味が重層的な幅をもって拡大する。見えている「何か」が「人物」で「女性」で、それが「サラ・コナー」だと認識するということはそういうことだ。何かが分かるということは、つねに身体的かつ暗黙的なものである。言葉や記号に還元できるものではない。

ターミネーターも所詮は低予算SF映画。現代からみてツッコミどころはいくらでもあると言えなくもないが、想像力を掻き立ててくれる作品として見どころもたくさんある。

テクノロジーや未来について考察するためのネタとしても、まだまだ使える作品だと思う。



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